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道徳的に厳しく悪いことを許さないイメージ

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 キリスト教徒作家やミッション・スクールの影響は、なんといっても日本人の多くがキリストについての何らかのイメージをもつようになったことに示される。キリストの教えである福音そのものの理解はまだ不十分であるが、漠然としたかたちで隣人愛、博愛主義的な視野の広がりをもたらしている。しかし、文学作品とミッション・スクールという道を通っているだけに、キリスト教が西洋文化の最も重要な要素という意識が強く、それが人類の宗教とか私たち日本人にぴったりくる信仰として受け入れるには、いまだ至っていないという感を禁じえない。御利益を中心とする日本人の信心の傾向に対し、キリストの教えが「ありがたみ」を感覚的に与えるものでなく、精神的な人格の向上と改心をもたらすものであるだけに、少々一般庶民には伝わりにくい面があるように思われる。
 福祉活動を通しての献身的な教会の活動は、多くの人びとの心をとらえるものではあっても、それがキリスト教に帰依している人の当然の行為であって一般凡人のものではないという隔たりを与えているようである。一般に教会の人間、すなわち司祭やシスターまた信徒に対しても、その期待が大きいためか、あるいはキリスト教の高い道徳的水準を重要視しているためか、厳しいまなざしが注がれている。明治以来、今日まで続いている一般の人びとのキリスト教に対するイメージは、前記したもの以外に、道徳的に厳しく悪いことを許さない宗教と映っているようだ。洗礼を受けることは、福音の教えとは異なり、厳しい道徳・倫理的生活を要求されることであるように人びとの目に映っているのが現実である。
 他方、より深くキリスト教の教えを知っている者のなかには、聖書や外国の教会の諸活動を見ながら、現代の正義の擁護者としての大きな期待を教会に寄せる傾向も見られる。    --ヨセフ・ハヤールほか(上智大学中世思想研究所編訳・監修)『キリスト教史11 現代に生きる教会』(平凡社、1997年)。

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ちょうど、九月に苦闘した紀要論文の初稿が届いておりましたので、昨日から時間を見ては、入力ミスの訂正、引用箇所の照合……等々、訓詁学的な作業をちまちまとやっております。原稿の入稿はこれまでも電子メールで送付していたのですが、初稿はいつも、製本するために刷り出したやつを郵便で送ってもらっておりましたが、本年からはそれがそのままPDF化されて送付されてくるようになりました。時間的なロスは少なくなりますので便利で、時代の進歩を実感する部分なのですが、結局は、朱を入れたそれを郵便で返却するべ……というかんじですから、早めに返却しないとマズいのですが、なんとか本日の市井の仕事の休憩中に終了です。

その折り、すこし、歴史的事実の確認のために、教会史に関わる文献を読んでおりましたが、うえの一文がその一節です。

日本人はどのようにキリスト教を理解したのだろうか……。自分が長年、戦っている?研究対象のひとつになるのですが、やはりどこか引用部分の後半部分で示されているような状況、すなわち、「明治以来、今日まで続いている一般の人びとのキリスト教に対するイメージは、前記したもの以外に、道徳的に厳しく悪いことを許さない宗教と映っているようだ。洗礼を受けることは、福音の教えとは異なり、厳しい道徳・倫理的生活を要求されることであるように人びとの目に映っているのが現実である」という見方が先行しているフシは否めません。

明治以降、再渡来したキリスト教は、やはりアメリカ合衆国の宣教師団がもっとも規模が大きく、そこで紹介されたそれが厳格なピューリタニズムを主体としたキリスト教であった所為もありますから、キーワードを拾っていくならば、「道徳的な厳しさ」とか「倫理的」とか、「善悪の峻別」……そういうイメージが強烈に存在します。

確かに明治期のキリスト教受容を振り返ってみると、キリスト教を受容した最初期の人々は、ほとんどが佐幕系の武士階級のひとびとが大多数です。ちょうど儒教の君臣道徳が崩壊し、武士道が廃れるなかで、そうした道徳的な厳しさの新しい価値観として受け入れられたという側面もありますので、ピューリタニズムが主体となって渡来したということはある意味ではベストマッチだったのかなとも思います。

そこでは、「キリストの教えが「ありがたみ」を感覚的に与えるものでなく、精神的な人格の向上と改心をもたらす」側面が強調されたりするわけですが、現実はそれだけがキリスト教ではありません。突き放したような言い方をするならば、ある一面だけが強調された受容と表現することも可能だと思います。

このことが良いことなのか・悪いことなのか……その評価・解釈は今後の課題になるのですが、ひとつだけその歩みの特徴的な部分を指摘するとすれば、うえの引用文から考えるとすなわち次の部分です。

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キリスト教徒作家やミッション・スクールの影響は、なんといっても日本人の多くがキリストについての何らかのイメージをもつようになったことに示される。キリストの教えである福音そのものの理解はまだ不十分であるが、漠然としたかたちで隣人愛、博愛主義的な視野の広がりをもたらしている。しかし、文学作品とミッション・スクールという道を通っているだけに、キリスト教が西洋文化の最も重要な要素という意識が強く、それが人類の宗教とか私たち日本人にぴったりくる信仰として受け入れるには、いまだ至っていないという感を禁じえない。

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キリスト教は日本へ再渡来以降、信徒数の若干の増減はありますが、ほぼ人口の1%という数で推移しております。しかしながら、考えてみるとキリスト教徒作家やミッション・スクールの影響というものは、それが一面的な印象を生みだす側面としては機能しましたが、見方をかえると、それは、1%という勢力ながら、ほぼほぼその10倍に値する人々に何か、関わりを持たせた、影響を与えた、ということです。もちろんそれは教育とか文学、はたまた社会福祉だけでなく、ひろく人間の文化現象という次元でみるならば、もうすこし高い数値の影響を与えているのではないだろうか……というところです。

現実には西洋の文化と渾然一体としての受容ですが、その影響は計り知れない部分が存在します。現実の信徒数の増減は大切な問題になりますが、それ以上の影響を与えているという事実は、宗教の存在・影響というものを考えるうえではきわめて重要な材料を提供していると思いますし、そのあたりは評価されてもよいのだろうと思います。

などと考えながら自宅へ帰ってみると、大切なヤークト・パンターの砲身がまっぷたつにおられていた。一つは偽装工作されておりましたが、号泣です。

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