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来れ、昼と昼との間に横たわれる幸いなる境界、

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眠りに

ワーズワース

ゆるやかに、一つまた一つ過ぎ行く羊の群、
雨の音、つぶやく蜂の声、
たぎり落つる河、風と海、
目路(めじ)はるかなる野辺、白き水の面(も)、澄み渡る大空、
わが思い次ぎつぎに移り行き、横たわれど眠られず、
やがてわが果樹園の樹より囀(さえず)りそむる
小鳥の歌声も聞えん。
かくて初時鳥(はつほととぎす)の物悲しき叫び声。
よべも、また、その前二夜(ふたや)もかくありて、
眠りよ、われ伏せりたれど、幽(かす)かにも汝をうること能わざりき。
されば今宵を眠らしめよ、
汝なくばなどて朝の喜びあらん。
来れ、昼と昼との間に横たわれる幸いなる境界、
新しき思いと喜びに溢るる健康とのなつかしの母よ。
    --ワーズワース(田部重治選訳)『ワーズワース詩集』岩波文庫、1966年。

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せっかくの休日ですが、仕事が山積してい、一日中、家のなかで、学問の仕事をしていたわけですが、やはりいい加減、「疲れてきます」。
ですから「外の空気でも吸ってくれば?」との悪魔のささやきを背にうけて、夕刻からあてどもなく自転車をこ一時間ほど走らせてきました。

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朝まだきより夜遅くまで金銭のために、自からの力を浪費し、
われらのものなるかの大自然に眼を注ぐこと少なく、
われらは自らの心を捨てて賤しき成功に没頭する。
    --ワーズワース「浮世の瑣事が余りにも多し」、前掲書。

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東京とはいえ、比較的郊外に住んでおりますので、大自然とまでいかなくても、小自然ぐらいはのこっている地域ですから、自然の空気を吸い込む?ことが比較的容易な環境です。

一日中、文字とか情報とかデータといったものと対峙しておりますと、やはりアタマがループしてくるわけなのですが、少し寒々とした秋の冷気が鮮烈なる刺激を与えてくれることに感謝です。イギリスの代表的なロマン派詩人・ワーズワース(William Wordsworth,1770-1850)に言われなくても、マア、分かっているつもりなのですが、雑事に翻弄されるなかで、「自然に眼を注ぐ」契機をちょいちょい忘れてしまうわけなのですが、そうしたところへの誘いをダイレクトに語ってくるワーズワースはやはり一種の天才なのだろうと思い直しました。ポケットに入れていたので、ひとつふたつを公園でぱらぱらめくっていましたが、やはりいい加減寒くなってきましたので、早めに帰宅しましたが、「瑣事」は確かに「瑣事」なのですけども、「瑣事」は「瑣事」でそれはそれで、それなりに大切なんだよなあ~とすこしぼやいてみたりもしましたが、やはり現実的に大切なのは、自然オンリーでもだめなのでしょうし、瑣事(自然との対でいえば、人工)オンリーでもだめなのでしょう。
おそらく、例の如くの持論になりますが、その両者を絶えず見放さず、両方を見ながら、相関的に関係させていくことが一番大切なのではないだろうか--などと思い直す秋の夕べでございます。

しかしながら、このワーズワースとかが生きた時代の前後、すなわち、17世紀後半から19世紀にかけて、やはり大きな話題になってくるのは「人の世界(=人工)」と対峙させられた「自然」という発想なのだろうと思います。ワーズワースの場合、湖水地方の自然に不遇な少年時代の心を癒され、そしてその美しさにに魅せられ、歌を詠んだのわけですから、直接的には関係ないのかもしれませんが、たとえば少し前の世代になりますが、フランス革命の原動力となるルソー(Jean-Jacques Rousseau,1712-1779)をはじめとする近代の啓蒙思想家たちの書物を読んでおりますと、なぜだか「自然」ということが種々出てきます。

そこで使われている「自然」なる概念は、何か一種の理想が理念化された概念になるのだろうかと思います。現実の問題のある社会体制(たとえばフランスの場合ですと、革命前のアンシャン・レジーム)を批判するために、そうした「歪んだ」状態になる前の「自然に還れ」という発想ですが、はたしてそれが「自然」な「自然」なのだろうか--そういうひっかかりです。ですから、その意味では、ワーズワースの「自然」とルソーの「自然」には大きな隔たりがあるわけなのですが、単純なグルーピングで現実を分断してしまう暴挙を承知で踏む込めば、おそらく前者が使う「自然」は、自然な「自然」に対する讃美ということ(しかし、すでに人間の言葉の介在という時点で、その自然はある種、「ひとの世」の「人工」になっているのでしょうが、ひとまず措く)、ルソーの場合は、「自然」という言葉を使いながらも、実は、かなり偏った形での「自然」、ある特定の立場から見た「自然」という色彩が、かなり強いのだろうと思います。

ずれるかも知れませんが(たぶんずれているのだと思いますが)つまるところ、どのような立場であったとしても、現実を批判する視座としての理念とか理想を持ち出す場合は、本当の自覚的な謙虚さが必要なのかも知れません。自分自身の立場が「自然なんだ、お前は自然に反している」などといいうのを聞くと、がっくし来てしまう宇治家参去だからなのかもしれませんが……。

さて……
ルソーの持っているファンダメンタルな側面は、確かに、現実の制度を揺り動かす「革命」を準備する思想となりましたし、その出来事は世界史的な出来事なのでしょう。しかし、フランス革命の渦中に渡仏し、そのときは熱狂的にその革命を支持したワーズワースですが、後年は、そうした立場を反省している、むしろ、その熱病的なるものに対する嫌悪すら吐露しております。同じ「自然」という言葉かもしれませんが、素人ながらも、何かふたりの違いを示唆してるように思われます。

そのうち落ちついたら、その辺の消息も調べてみたいものでございます。

で……
ですから、正直なところ、ワーズワースは好きですが、ルソーに関しては正直苦手な思想家のひとりでございます。苦手というか違和感のあると言った方が正確かもしれませんが、そうした苦手とか違和感も直していかないといけませんので、課題が山積です。

で--ワーズワース……。
息抜きついでに、やはりワーズワースでしたらか、ワーズワースを熱心に宣教してくれた大学時代の友人に敬意を表しつつ、彼の大好きなハイネケンを求め、これから一杯です。

帰宅すると、はらはらどきどきしていたメールが送付されておりました。
12月の沖縄スクーリングの次の週に岡山でのスクーリングが連チャンで入っていたのですが、「不開講」「回避」!

ゆっくり「眠りに」つけそうです。

期待を裏切られないように頑張らないと……

ワーズワースネタの関連エントリは以下
http://thomas-aquinas.cocolog-nifty.com/blog/2008/01/post_a5de.html

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