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過去と未来を繋ぐ神学とか宗学とか教学

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 宗教の歴史をみれば分かることだが、どんなにすばらしい宗教運動でも、単なる宣教や牧会、霊性や信心、または政治運動や教育事業、社会福祉事業などの活動を中心としただけの宗教教団は、結局、線香花火や根無し草みたいに、一時的には栄えても、自滅消滅してしまう。ある宗教運動が、その社会や文化に根づき、歴史上長く存続し、遙かな世紀にわたって大勢の人々の思考と生き方に影響を与え、彼らの安心立命と「魂」の救いのために貢献するためには、次の二つのことが要件となると思われる。一つは、しっかりした組織としての教団を確立すること。もう一つは、創始者の教義が研究され、愛敬的にまとめられ、理論化され、文書化された教学(宗学)が存在し、機能することである。鎌倉仏教の例を見てもそれは明白である。
 キリスト教では、イエスご自身は何も書かれなかったが、復活のイエス・キリストの出現を体験した使徒や弟子たちにより、イエスの言行が記録され、かつそれをめぐって、例えばパウロによって、福音信仰による義認という贖罪と救済の神学が構築された。それゆえ新約聖書という一つの教典を持つことができたのである。もし新約聖書がなかったら、キリスト教は歴史上、存続していなかっただろう。キリスト教が、人々の心と魂に、更に地中海世界やヨーロッパ世界の社会と文化にほぼ完璧にインカルチュレーション(福音の文化的受肉、あるいはキリスト教の文化内開花、つまりその国の民族の文化、風俗習慣への完全な血肉化のこと)できたのは、初代教会(イエスの生存と宣教と逝き方の記憶を基に、使徒や弟子や監督や長老たちが中心になって伝道し、信者を増やし、教会を設立、発展させていた時代)から殉教の時代、それから教父の時代(教義の理論化と神学大系の構築がなされ、初期の公会議が開かれた頃。四世紀から七、八世紀くらいの時代)と段階的に続いてきたからではないだろうか。
 大雑把で恐縮だが、日本のカトリック教会で言えば、宣教師の渡来とキリシタン増大の時代のあと長い迫害の時代を迎え、今こそ教父の時代を迎えていると言えるのではないだろうか。無論、これまでも優れた神学者や思想家、哲学者も現れたが、残念ながら、後継者の養成や学問の継承という点ではあまり成功したとは言えない。この点、日本のプロテスタントは、明治初期から学問的にも優れた指導者を大勢輩出させ、国家権力による教会の合同・合併という苦しい宗教弾圧を経験したが、有為の弟子たちを多数育成し、その成果は多くのキリスト教主義学校に継承されている。キリスト教の学術書や聖書の研究書の多くは、プロテスタント系出版社による刊行であるが、信心書や霊性の書物ばかりでなく、神学の著作を発行することも、カトリックを宗教文化として日本に定着させることにつながるであろう。
 最後に、日本の神学の構築に向けて一言述べたい。日本の宗教・倫理文化は、人間とは何か、自己とは何か、いかに生きるのかといった課題をめぐって展開されることが多いので、少なくても実践神学の分野においては、インカルチュレーションの問題も含め、オリジナルな日本の実践神学を構築できるはずであると、私は考える。
    --越前喜六「なぜ教会は学問に力を入れるべきか」、『神学ダイジェスト 91』2001年、上智大学神学会。

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本を整理し始めると、整理という本来業務がおろそかになってしまい、整理を脇において、「読み始めてしまう」宇治家参去です。

ちょうど休みだったので、古い紀要をまとめて整理していたのですが、整理ははかどらず、結局、コーヒーを飲みながら、読んでしまったのがうえの引用文でございます。

ちょうど修士のころ、日本におけるユニテリアン運動を初めとするキリスト教諸派の研究していたことがあるのですが、例えば明治とか大正時代に、一時は「わぁーっ」と拡がり、広汎な影響(宗教のみならず文化に対しても)を与えたにもかかわらず、宗教運動としては失敗した事例というのがたくさん存在します。

誤解を招くような表現で恐縮ですが、たとえば、文化的には派手に影響をあたえたけれども、宗教運動(教会形成)には失敗し、具体的に言うならば、法人として消滅してしまった事例というのが存在します。ユニテリアンの運動もそのひとつです。

翻ってみると、文化的に広汎な影響を与えるような「派手さ」はありませんが、例えば、純粋な福音主義を貫き教会形成・信徒の育成に心血を注いだ教派は、連綿と生き残っているという事実も一方には存在します。

その意味では、素描と実感になりますが、宗教(団体)というものは、信仰形成(個の側面)、教会形成(全体の側面)、そして学問の3つの領域のどれがかけてもだめなのかな……などと思ってしまいます。

信仰形成とは、すなわち、個々の信仰者の信仰(心)の薫陶といことです。

そして教会形成とは、信仰共同体の形成という部分です。信仰は機械的な部分・作業・修行としては個々の一人一人の問題になりますが、信仰とは決してひとりでできる・維持できるものではありません。だからこそ、共同体の形成が大きな問題になってきます。

そして、うえの引用文でも触れておりますが、やはり3つ目の視座として学問(教学・宗学)という部分です。信仰を深めるための教義研究・研鑽は必要不可欠です。しかしそのためだけに信仰に関わる学問が存在するわけでもございません。ほかにはどのような視点があるのだろうかと考えてみますと、ひとつには、現実の存在に対する「批判」という役割が存在すると思います。「批判」ということばためにする批判の批判というよりもカント(Immanuel Kant,1724-1804)的なクリティーク(Kritik)という意味合いですが、いわば、現実の存在・運動・情況を「反省」するとでもいえばいいのでしょうか……そうしたところあると思います。

誤解を招く表現ですが、いわば、学としての立場から、自己自身、そして共同体自身が恣意的になっていないのかチェックしながら、その文化的背景のなかで、次代へ繋いでいくそうした使命が、信仰に関わる学問には存在すると思います。

「厚き信仰心だけで充分だろう、ボケ」っていわれそうですが、それはそれで大切であったとしても、それだけでは充分じゃないのだろうと思います。自己自身の問題でありながら、次に繋いでいくこと失敗した場合、宗教(運動)は消滅してしまいます。
個の側面、そして共同の側面、そして過去と未来を繋ぐ学の側面は宗教においては必要不可欠なのだろうと思います。

現実にはこの三者には温度差が存在します。

しかし、その三者が有機的にかみ合った場合、その運動は飛躍的展開を迎えるのではないだろうか……宗教史を学ぶとそのあたりをよく実感します。
※ただし、そうした個、共同、学という機軸で宗教をみるものの見方は、近代以降の宗教理解で、アニミズムとかそのへんはどうするんだ!といわれそうですが、そのことは承知の介ですけどもキリスト教研究者としては、ひとまず、キリスト教とか仏教といった対象に関しては上述のような視座が重要になってくるということだけは言い切れるのだろうと思います。

では、仕事に戻ります。
もう一度、整理しなおすところから……。

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コメント

上智大学の法科大学院長である長沼範良教授が教え子の女子学生を強姦した事件は国民に大きな衝撃を与えている。刑事訴訟法の権威で司法試験委員でもあるこの法科大学院長は、今までにも多数の女子学生を強姦し彼女たちの人生を破壊してきた。この教授は受け持つ科目の成績を悪くつけてなかなか単位を取らせないので知られている。しかし本当は、学生ができていてもかわいい女の子にはわざと悪い点をつけてそれをネタに脅迫して強姦に追い込んでいたというのが真相なのだ。今回の強姦でも一年生の女子学生にことさら「キミの成績は悪いよ」と脅迫し「司法試験委員の私が強姦すれば合格は間違いなしだ」と迫っている。こうして彼女のスカートとパンティーを一挙に下ろして長沼範良教授は女子学生を裸にしたのである。大学の科目や司法試験が強姦の道具に使われている現在こんな悪逆非道な試験など受けたくもないし、政府の要職についたやつらはこんなにたくさんの何の罪もない人々の人生を破壊してきたのだ。この強姦法科大学院長は、逃げ出した女の子からはぎとったブラジャーなど下着を教授の自宅にまで持ち帰っているのは追いはぎにも劣る醜悪さである。このあいだ東京大学法学部の教授が女の子のおシリにむしゃぶりついて逮捕されたように、この強姦法科大学院長も東大法学部出身で子どもの権利を守るとか政府の委員会でほざいていたのが教え子の肉体も精神も破壊しまくっているのだ。表向きは善良そうでも裏では犯罪やり放題の凶悪犯どもは学問を利用して次々と教え子をヤイバにかけて食い物にしている。こんな最悪の日本を滅ぼさなければならない。

投稿: るみこ | 2008年11月27日 (木) 09時08分

強姦犯罪者である長沼範良を擁護する上智の神はいつわりのメシア、まさしくサタンそのものである。上智大学に神の裁きを!

投稿: 闇の警視監 | 2009年6月12日 (金) 16時06分

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