良書を読んで欲しい……
「哲学」の授業では、ひととおりの哲学史の概観と整理がおわったので、後半はテーマ別につっこんで議論するように授業を組み立てております。そのなかで最初にやるのが「文学」の問題です。「文学」と云えば、漱石とかゲーテとか出てきそうですが、広く云うならば、「何故古典名著の読書が必要なのか」を講義するようにしております。哲学に限らず、学問とはいわば「本を読まないことにははじまらない」からです。
通俗的な対比ですが、冒頭で良書と悪書の違いを学生さんたちに議論させたうえで、「古典名著」を読むことの重要性を紹介するようにしております。
良書とはすなわち、何百年にもわたって読み継がれている古典名著ということになろうかと思いますが、それだけ「読み継がれている」にはやはり訳があります。
その部分を念入りに話し、聞き手もそれなりに納得するわけですが、実際にトルストイやゲーテを手にしてみるとチンプンカンプンでしたというリアルな問題も厳然と存在します。
そういう場合にはやはり実際上のアドバイスが必要となってきます。
まずはじめに言えるのが、古典名著とはその存在性を比喩的に喩えるなら、チョモランマとかアルプス山脈のような名峰ということです。それを読むということは登山と同じコトになりますので、「読むため」の「基礎体力」ができていない場合、古典名著とよばれる名峰を登攀することは難しいわけになります。
だから、山登りに馴れていない場合は、好きなジャンルから、「読む習慣」をつける以外に方法はありません。「読む習慣」がつけばスタートすることができると思います。
それともうひとつ重要なのが一度でやめないということです。
結構よんでいる人間でも「理解」できない場合という現実は存在します。
何故そうなるのでしょうか?
古典名著のもうひとつの側面ですが、古典名著とは、ある意味で「鐘」のようなものです。これは、読み手のキャパシティに大きく左右されてしまう部分ですが、すなわち、小さくたたけば小さく響かないし、大きく打てば大きく響く……そういうところが存在します。だから、10代の自分では理解できなかった内容であったとしても、20代になってから理解できる、また30代、40代になってから理解できるということがあるのです。
自分自身の場合もそうでした。
よく紹介しておりますがドストエフスキーの作品なんかもそうしたもののひとつで、10代、そして20代では話の筋を追うことはできたとしても、残念ながら理解するという状況には至りませんでした。それが30を超えてから改めて読み直すと、ぐんぐん引き込まれていく……そうしたところがあると思います。
そして最後にいえることですが……そしてそのことを言うのは訓戒めいて嫌なのですが、踏み込ませていただくと……古典名著こそが人間を薫育するということです。ああ、そういう議論ですかって言われそうですが、このことは、実感としても間違いないと思います。何故なら、偉大な作品には、そこに人間の成功と失敗、美と醜、そして善と悪とその中間色がみごとに描かれているからです。
古典名著への挑戦は確かに、しんどい・骨の折れる作業です。そしてその作業は一種、「修行」の趣さえ存在します。しかしながら、そうした労作業の中で、ひとりひとりの読み手が自分自身で手につかむ宝とは現実のダイヤモンド以上の輝きをもっている至宝なのだと思います。
幸福な社会を目指すと言っても、指導者が大文学を読んでいないようではお話にならないと思います。
短大で授業を聞いてくれている若い女学生たちには、本当に、大学時代に「いい本」をよんで欲しいと切に念願する宇治家参去です。
で……。
「具体的にはどのように進めればよいのですか?」
こうした質問が必ず出てきます。そこで宇治家参去は次のように答えるようにしております。すなわち……。
「ともあれ、よい本を身近においておくこと。そしてカバンに一冊いれておくこと。そうすればいつか手に取る日が巡ってきます、まずは本を手にしてみましょう」
そこから始まるのだと思います。
中国の古典『中庸』には次のような言葉があります。
「博くこれを学び、審らかにこれを問い、惜しみてこれを思い、明らかにこれを弁じ、篤くこれを行う」。
すなわち「何事でもひろく学んで知識をひろめ、くわしく綿密に質問し、慎重にわが身について考え、明確に分析して判断し、ていねいにゆきとどいた実行をする」という意味です。その材料をひろく提供してくれるのがまさに古典名著とよばれる良書たちの存在です。良書と向かい合う作業とは、単に文字を追いかけるということではなく、一書に対して「くわしく綿密に質問し、慎重にわが身について考え、明確に分析して判断し、ていねいにゆきとどいた実行をする」ことなのだと思います。そうすることで「博く」ものごとを「学ぶ」ことができるのだと思います。
そしてもうひとつおまけにいうならば、ほんの話題を対話できる友人をもつことだと思います。自分もそうですが、ほんの話をできる友人ほどありがい存在はございません。
学生生活の一こまにそうした局面をもって欲しいと思う宇治家参去でした。
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博くこれを学び、審(つまび)らかにこれを問い、惜しみてこれを思い、明らかにこれを弁じ、篤(あつ)くこれを行う。学ばざることあれば、これを学びて能くせざれば措(お)かざるなり。問わざることあれば、これを問いて知らざれば措かざるなり。思わざることあれば、これを思いて得ざれば措かざるなり。弁ぜざることあれば、これを弁じて明らかならざれば措かざるなり。行なわざることあれば、これを行ないて篤からざれば措かざるなり。人一たびしてこれを能くすれば、己れはこれを百たびす。人十たびしてこれを能くすれば、己れはこれを千たびす。果たして此の道を能くすれば、愚なりと雖も必ず明らかに、柔なりと雖も必ず強からん。
何事でもひろく学んで知識をひろめ、くわしく綿密に質問し、慎重にわが身について考え、明確に分析して判断し、ていねいにゆきとどいた実行をする。〔それが誠を実現しようとつとめる人のすることだ。〕まだ学んでいないことがあれば、それを問いただしてよく理解するまで決してやめない。まだよく考えていないことがあれば、それを思索してなっとくするまで決してやめない。まだ実行していないことがあれば、それを実行してじゅうぶんにゆきとどくまで決してやめない。他人が一の力でできるとしたら、自分はそれに百倍の力をそそぎ、他人が十の力でできるとしたら、自分は千の力を出す。もしほんとうにそうしたやり方ができたなら、たとい愚かな者でも必ず賢明になり、たとい軟弱な者でも必ずしっかりした強者になるであろう。
--金谷治訳注「中庸・第11章」、『大学・中庸』(岩波文庫、1998年)。
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大学・中庸 販売元:岩波書店 |
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