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アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である

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……唯物論的に見通しの利く文化は、唯物論的により率直になったのではなく、単に低級になったにすぎない。この文化は、おのれ自身が特殊性になるのにともなって、それがかつて他の特殊性と対立した際もっていた真理の塩をも失った。この文化にその責任を問うたところで、否定されるだけで、単に文化的もったいぶりが確認されるにすぎない。しかし今日では、すべての文化的伝統が、中性化され、しつらえられた文化として、なきに等しいものになっている。ロシア人たちが自分たちはその遺産を相続したと殊勝げに喧伝しているその遺産も、取り返しのつかない過程を通じて、その大半がなくてもいいもの、不用なもの、屑となった。すると次に、文化をこういう屑として扱う大衆文化の荒稼ぎ屋たちが薄笑いしながらそれを私的できることになる。社会がより全体的になれば、それに応じて精神も物象化されてゆき、自力で物象化を振り切ろうとする精神の企ては、ますます逆説的になる。宿命に関する最低の意識でさえ、悪くすると無駄話に堕するおそれがある。文化批判は、文化と野蛮の弁証法の最終段階に直面している。アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である。そしてそのことがまた、今日詩を書くこおが不可能になった理由を語り出す認識を浸食する。絶対的物象化は、かつては精神の進歩を自分の一要素として前提したが、いまそれは精神を完全に呑み尽くそうとしている。批判的精神は、自己満足的に世界を観照して自己のもとにとどまっている限り、この絶対的物象化に太刀打ちできない。
    --テオドール・W・アドルノ(渡辺祐邦・三原弟平訳)「文化批判と社会」、『プリズメン』(ちくま学芸文庫、1996年)。

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市井の職場も、クリスマス・モチベーションの11月12日着地完了ということで指示が出ておりまして、このところ、合間をみては演出物の交換を行っております。ダサイ職場ではございますが、普通に暮らしているよりも、「季節感」だとか「記念日」とか、そういうものを「意識」させられる(=そこで稼ぐ!)部分がありますから、そのような「行事」に敏感になってしまうのは、ある意味で有難いのでしょうか……。

出勤前に、細君と息子殿が話をしていましたが、耳を傾けてみると……。

「お母さん! ○○をサンタさんに頼んでください」
「いや~」
「どうして?」
「いい子にしないから」
「いい子にしたら、頼んでくれるの?」
「ウン」

どこにでも「転がっている」ような会話でございますが、5歳の息子はサンタさんの存在を疑ってはいないようでございます。

「実はなあ、クリスマスのサンタクロースという存在はだな、ローマン・カトリックとか正教会で聖人に列せられたニコラオス(Agios Nikolaos,270-345or352)がモデルにされた、架空の人物なんだよ……」

……なんて、言いだしそうになったのですが、細君がギロリと目を剥くので、控えまして御座います。

いつかは本人が気づくことでありますから、とりあえずはふれないことにしましょう。

で……。
そういう俗信とか迷信、ないしは、根拠の疑わしいあり方に対して、太陽のような光明をもってして、白日の下にさらけだそうとしたのが、18世紀より力を持ち始めた啓蒙の力なのでしょう。

啓蒙とは何か--。
「啓蒙とは、人間がみずから招き、従ってまた自分がその責めを負うべき未成年状態から脱出することである」と述べたのはカントである(カント(篠田英雄訳)『啓蒙とは何か―他四篇』岩波文庫、1974年)。

その意味では、息子殿は、自分自身の未成年状態から、自分のちからで脱出していくことが啓蒙の階段を登ってっていくと言うことなのでしょう。

宇治家参去自身が、その階段を無理矢理登らせる必要はないのかもしれません。
無理矢理登らせてしまうというあり方そのものこそが、実は啓蒙の陥穽なのかもしれません。

上に引用したアドルノ(Theodor Ludwig Wiesengrund Adorno,1903-1969)は、盟友・ホルクハイマー(Max Horkheimer,1895-1973)とともに(徳永恂訳)『啓蒙の弁証法』(岩波書店、1990年)という書物を残しておりますが、次のような問題提起を行っております。

すなわち……

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何故に人類は、真に人間的な状態に踏み入っていく代りに、一種の新しい野蛮状態へ落ち込んでいくのか
    --アドルノ・ホルクハイマー(徳永恂訳)『啓蒙の弁証法』岩波書店、1990年。

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……という言葉です。

たしかにそうで、啓蒙の光明によって、人間の知性は蒙いあり方から啓発され、自由に解き放たれることによって、人間は真の自由を獲得する……それが自然科学の発展と手を携え、進歩神話によって、20世紀にいたるまで、人間を「魔術」や「詐術」から「解放」するなどというスローガンのもとに人間に光があてられてきたわけですが、現実には、人間を自由にするはずのテクノロジーが人間自身を蝕んでしまう状況になってしまったというところです。

文明化とか文化生活という標語が実は、一種の野蛮状況を招いてしまったという陥穽とでも言えばいいでしょうか。

そういうジレンマがあります。

おもえば、ユダヤ人の大量虐殺も啓蒙主義的理念である「合理化」というあり方がなければ大量に「処理」することはできなかったわけです。ユダヤ人を「大量」に運ぶ列車の手配、燃料の準備、収容所の設置と施設の管理・保全……。

啓蒙主義を全否定するわけでは毛頭ありません
が……、啓蒙が一人歩きしてしまうと、なにやら、生きている人間をはなれた「プロクルテスの寝台」になってしまうのかもしれません。

サンタクロースの存在は、息子殿自身が確認するのがよいのかな?と酒をのみながら悩む宇治家参去です。

で……。
今年は寒かろうということで、先週、パシュミナのストールを注文していたのですが、本日無事に到着。思っていたよりも軽くしなやかなのに驚きです。実は、カシミヤとかウールといった素材があまり得意ではないので、マフラーはシルクを利用していたのですが、年頭の大阪でのスクーリングでの折り、運悪く?……多分飲み屋で……紛失した(持ち帰るのを忘れた?)ので、渋々カシミヤとかウールで繋いでいたのですが、やっぱり、新しいの欲しいよなってことで、新境地をということで、パシュミナに今回はチャレンジしました。

思っていたよりもけっこういいもんですね。

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