教養ある食卓
-----
私は娘時代からケーキや菓子パン、ドーナッツ、クッキー、それにコーヒーが大好きでした。ところが中国の友人はパンが嫌いで、日本のお米が大好きです。そうなると、米にあったおかずを作るようになります。鍋が大好き(食材の栄養が丸ごと食べられる)、お酒も大好き、すいかの種やカボチャの種、クルミやナツメなどをつまみながらお酒を飲んで、最後にご飯に漬物をのせて海苔を巻いて食べるのが大好き、日本の米は粘りがあっておいしいとニコニコです。小腹がすくと、中国茶を飲みながら、植物の種や木の実を食べるので、いつの間にか、私も菓子パンとケーキを食べることがなくなりました。
買い物をするときは、日本語が読めないので、新鮮かどうか、手にとって確認します。加工品やレトルト食品などは一切買いません。私から見たらとてもきれいな野菜でも、よく洗うように注意されました。(中略)
中国の友人のおかげで、私にとって、とても大切なことを学ぶことができました。食材を買うときには新鮮かどうか自分の目で確認する、パックに入っているきれいにみえる食材でもよく洗う、調理中に出てきたアクはよく取り除く、味付けは天然の調味料を使い自分で作る……。
学んだことを実践する中で、いつの間にか添加物や合成着色料、農薬を上手に避ける方法が身に付き、日々、体が喜んでいるのを実感できるようになりました。健康に生きるためには「教養のある食生活」が必要なのです。
--華陽『ヘルベジクッキング4 多国籍乾物料理』ユック舎、2008年。
-----
遅筆を直すゆえに、こうしたブログとか日記のようなかたちで、書くことのフットワークの軽快さをみにつけようとしているのですが、なかなかうまくいきませんねぇ。
週の初めに、出版物の謹呈があったのですがなかなか書き出せず。
本日、ようやく「礼状」をしたため投函しました。もっと速く出せばよかったのですが、申し訳御座いません。
ちなみに、贈って下さったのは、以下の書籍。
・小林華陽『ヘルベジクッキング2 お豆、大好き』ユック舎、2003年。
・華陽『ヘルベジクッキング3 乾物の使い方がよくわかる 手軽でおいしい 超簡単レシピ』ユック舎、2008年。
・華陽『ヘルベジクッキング4 多国籍乾物料理』ユック舎、2008年。
料理の本ですが、三冊もありがとうございます。
ちょうど、通信教育部のスクーリングを受けられた学生さんの御母堂様の著作になるのですが、今度贈りますよって、ご挨拶を頂いており、贈って下さいました。
料理に関して宇治家参去はド素人な男料理しかできませんが、読んでみますと、全頁カラーで、大変読みやすく、作ってみたくなる一冊です。これで我が家の食卓にも「教養」がもたらされること間違い無しと革新の核心でございます。
倫理学とは人間のあり方とは何かを問う学問ですが、その意味ではそこに関わってくるすべての事象が検討対象として問題となって参ります。例えば衣食住と人間はどのような関係を結んでいくべきか検討するわけです。その意味では食の問題は人間の生存とは切っても切り離せない大問題であって、日常生活の一コマだから「かえり見る必要はない」などと処理することができません。ですから、そうしたところを考えさせてくれる一冊になりそうです。
-----
学んだことを実践する中で、いつの間にか添加物や合成着色料、農薬を上手に避ける方法が身に付き、日々、体が喜んでいるのを実感できるようになりました。健康に生きるためには「教養のある食生活」が必要なのです。
-----
食に限らず、「学んだことを実践する中で」体も心も喜ぶような「教養ある生活」に、生きる流儀を組み立て直したいものでございます。
さて……教養。
近代ドイツで形成された教養概念の形成と時を同じくして誕生するのが、いわゆる「教養市民階層」と後に表現される「教養身分」です。
貴族と市民という在来の出自による壁をうち破る形で、登場した社会階層といってよいと思います。「高級な、すなわちようようある身分」のひとびとが社会の上層を形づくるべきという観念が、ひとびとの間に広がりはじめていきます。これが18世紀後半から20世紀初頭にかけてゆっくりとひとつの固定的な階層になっていくわけです。
社会をリードすべき階層として、貴族に代表されるような出生による身分に比べると、遙かに自由度の高い階層とも思えそうですが、結局の所、そのようにはなりません。
基本的には近代に整備される大学教育における「教養」教育をうけた人間のみが構成できる階層へとなってしまったからであります。
-----
フォドゥングは、帝政期のドイツの教養市民層の第一の指標として大学教育を受けた者であることをあげているが、こういう方向に教養身分の意味内容が狭められ、形式化されてゆくうえでは、なんといっても、一八一〇年のベルリン大学の設立を端緒とするドイツ大学制度の改革の意義が大きかった。この大学改革を通じて、教養理念と大学制度が結びつけられ、教養理念は生涯を通じての人格の多面的で調和的な完成という思想を革新に据えつつも、大学において学問に親しむことをその不可欠の前提条件とするようになった。同時に、そのことによって、大学教育を受けていることが教養身分の一員たることの必要条件とされることにより、そこから教養身分が極端に閉鎖的で排他的なエリート層としての性格をとみに濃くしてゆく傾向も生じたのである。
--野田宣雄『ドイツ教養市民層の歴史』講談社学術文庫、1997年。
-----
本来、人格の発展とか調和を目指すべき契機であったはずの教養とか学問そのものが、人間自体を分断・疎外していってしまう。難しいものでございます。
また後日、すこし考えてみようかと思いますが、「教養ある生活」とは、そのようなものでもなかろうと思います。
| 固定リンク
「哲学・倫理学(現代)」カテゴリの記事
- 日記:郷土やその伝統と文化を大切にしたり学ぶというよりも、stateに従順で反論しない人間育成としての道徳科「愛国」教育という中身(2015.02.14)
- 日記:「本人」は「本人」以外の他者や機関によってはじめて「本人」が「本人」であると担保づけられる(2015.02.12)
- 日記:福沢諭吉生誕180年にして想う(2015.01.10)
- 日記:なぜ、真摯な自己反省が、外界に目を向け他者と出会う真のプロセスの要因となり得ないのだろうか。(2015.01.01)
- 日記:2014年の3冊(2014.12.31)
この記事へのコメントは終了しました。





コメント