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【覚え書】ジークフリート・クラカウアー「倦怠」

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時間はあるはずなのに、時間がないので、【覚え書】でもひとつ。

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 今日倦怠を感ずるだけの暇はたっぷりありながら、倦怠を感じない人たちは、結局倦怠を感ずる余裕のない人と同じように退屈な人間である。なぜなら自分自身が行方不明になっているからだ。もし自分自身がいるならば、いまのようにあわただしい世界では、目的もないままに長い間滞在して退屈することを余儀なくされるし、また長い間滞在してじっとしていられる場所などどこにも見つかるはずがない。
 いうまでもなく大多数の人たちには余暇がかけている。生活費を稼ぐのに追われており、その生業でぎりぎりの必要を賄うことで消耗し尽くしてしまう。不快な束縛を多少とも耐えやすくするために、ある種の労働倫理をひねりだす。これが仕事に道徳的な粉飾を施し、何とか道徳的な満足感をつくりだしてくれる。自分のことを道義的存在であると感ずる誇りがあらゆる種類の倦怠を追放するといったらいいすぎかもしれないが、日々の苦役にむけられるありきたりの倦怠はそもそも考慮に値しない。というのも、その種の倦怠は致命的というほどのことはなく、また新たな生へ人を呼び覚ますものでもなく、たんに不満を表すにすぎず、この不満も、ややましな仕事が道徳的に聖化された仕事して提供されればたちまち消えてしまうものだからである。それにもかかわらず、自分に課せられた義務にあくびする人のほうが、好きで仕事をやっている人よりもいくらか退屈な人間ではないということはありうる。好きで仕事をするこの不幸な人は、ますますその仕事にはまりこみ、ついにはものを考える頭がどこかに消えてしまう。この消えた頭をもとにもどす極め付きの倦怠、ラジカルな倦怠は、永遠にかれらからへだてられたままになる。
 ところで余暇が全くない人などいはしない。オフィスは常設の収容所ではないし、日曜休日は制度化されている。したがって原則としては誰にでも、素晴らしい休日にまともな倦怠に身を委ねるチャンスはあるわけだ。それなのに人は何もしようとしない。されるがままになっている。世の中は人が自分自身にいたることがないように気を配っている。ひょっとして人が世の中に関心を持てなくても、世の中のほうは人に対して十分な関心を抱いており、そのために人は世の中に対して十分倦怠を感ずるほどの休息を見いだせない。結局は世の中に対しては倦怠こそがふさわしいのに。

 夕方、満たされぬことに倦んで、街をぶらつく。本当はこの不満のなかに充足のめばえがあるのに。その時ネオンの文字がビルの屋根をかすめる。すると人はもうおのれの空虚のなかから目新しいコマーシャルに呪縛される。肉体はアスファルトに根を生やし、もはや私たちの精神ではない精神は、啓発的な電光掲示とともに、夜のなかから夜のなかへとあてどもなくさまよう。もう一度消え去ることができたならば!だが精神はメリーゴーランドをめぐるペガサスのようにひたすら円を描かねばならず、上空から銘酒の評判、極上の五ペニヒ煙草の褒め言葉を告げるのに倦むことは許されない。何らかの魔法が数千の電球とともに精神を駆巡らせ、電球によって精神はぴかぴか輝く広告文になる。
 たまたま帰宅しても、すぐに立ち去り、映画館のなかで、さまざまな姿をくり広げさせる。つくりものの阿片窟につくりものの支那人になってうずくまる。スター女優のために滑稽なほど賢い芸を魅せる仕込まれた犬に変身する。もくもくと雲立ちのぼって山岳の嵐となる。サーカスの芸人になると同時にライオンにもなる。どうして変身することに抵抗できようか。満たされるのが嫌ではない空洞に、ポスターがなだれ込んでくるのだ。人影のない宮殿のような空白のスクリーンのまえで、ポスターに引きずられてくる。そして次々と場面が登場するとき、この移ろいやすいシーンのほか、この世にはなにもない。じっと見つめて我を忘れる。巨大なブラックホールが生の仮象とともに生動する。しかしこの生は誰のものでもなく、あらゆる人を疲弊させる。
 ラジオも人の本質を塵のように飛散させる。まだ電波を捉える前からそうなのだ。送信しなければならないと信じている者は多いから、人は絶えず妊娠している状態におかれる。いつもロンドン、エッフェル塔、ベルリンを孕んでいることになる。優美なヘッドホーンに誰が抵抗できよう。ヘッドホーンは客間で輝いている。ひとりでに頭の周りに絡みついてくる--そして退屈ではあるが教養のある会話を育む代わりに、人は世間のうわさ話の舞台と化す。そのうわさ話はそれ自身は何らかの客観的な倦怠の産物であるにもかかわらず、個人が倦怠に浸るという慎ましい権利を、決して認めようとしない。魂が遠くまでまさよっているとでもいうように、集まった人は黙って、生気なく座っている。だがその魂は自分の好みにしたがってなのか、獲物なのか誰にも分からなくなる。カフェにおいてさえ、本当はここで針鼠のように緊張して、自己の虚しさを自覚したいと望んでいるのに、やかましいスピーカーが、私的な存在の痕跡を一切駆逐してしまう。音楽が休みのあいあだは、お知らせがホール全体を支配する。。この蓄音機紛いはやめてくれという要求は、耳をすませているボーイに腹をたてられ、断られる。
 このようにアンテナが押しつけてくる運命に人が悩んでいるあいだに、五大陸はますます近づいてくる。実際は、私たちが五大陸に向かって心をくつろがせるのではなく、五大陸の文化のほうが、無制約な帝国主義によって、私たちを占有するのである。まるで空きっ腹で見る夢のようだ。極称の銃弾が遙か遠方から君に向かって飛んでくる。みるみる拡大し、クローズアップされ、唸りをあてて君を襲う。君はそれを止めることはできないし、逃れることもできない。縛られたようにそこに立ちすくむ。巨像にさらわれて、その周りでおびえている無力な人形だ。逃亡は不可能である。中国の不穏情勢がうまく収拾される。すると必ずやアメリカからボクシングの試合が押し寄せる。西洋は、人が認めようと認めなかろうと、常にそこにいる。地球上のあらゆる世界史的事件は--現在の事件だけでなく、生への執着において無恥な過去の事件も--専らただ一つの欲求を持っている。つまり私たちがいると推定されるところでランデブーすることである。しかし館に主人を訪ねることはできない。旅に出ていて、見つからない。空き家はとうにサプライズ・パーティーに明け渡してあり、パーティーが主人として振る舞っている。

 ところで人は追い立てられなければどうするだろうか。そのときは倦怠が、ふさわしい唯一の仕事になる。人がまだ自分自身の有り様を意のままにできるための一定の保証を提供するからである。倦怠を感じないのならば人はそもそもそこに存在しないのであって、初めに述べた倦怠の対象にすぎなくなる。--つまり、ビルの屋上でネオンとして輝くか、映画リールとしてながれ去っていく。人が存在するならば、その存在を許容しない周囲の抽象的な喧騒に必ずや倦怠を覚え、またこのような喧騒のなかにいる自分自身に倦怠を覚える。
 一番いいのは、太陽の降り注ぐ午後、皆が屋外に出ているときに、駅の待合室で過ごすことである。あるいはもっといいのは、家でカーテンを閉めて長椅子に寝そべり、倦怠に身を委ねることだ。憂愁に心曇らせ、極めて尊敬すべきもろもろの観念に戯れる。ついには自分自身のもとにあるという以外のことは何もせず、そもそも何をなすべきかを知らないという状態に満足する--テーブルの上におかれ、ガラス製であるために飛び跳ねることのできないコウロギや、自分の風変わりな形に何の意味も見いだせないサボテンの無意味さに、ひたすら共感する。これらの飾りの置物と同じように、あまりに生真面目にならず、今はただ、あてどない内面の不安、突き返される渇望、真に存在せぬままに存在するものに対する嫌気の念を抱くのみである。
 とはいえ、じっと忍耐するならば、正当な倦怠には不可欠な忍耐をもつならば、ほとんどこの世ならぬ幸福感を味わうことになる。一つの風景が浮かび上がる。華麗な孔雀が羽を広げ、魂に充ちた人間たちの彫像が、姿を見せる。すると君の魂も膨れ上がる。君はうっとりして、常に見失われていたものの名を呼ぶ。大いなるパッションの名を。彗星のように光を発しながら、それが降りてきて君のなかに、他の人たちのなかに、世界のなかにとびこむなら--ああ、そのとき倦怠はついに終わり、今あるすべてのものは……。
 だが人間たちは遙かに遠い彫像のままであり、大いなるパッションはしゅっと音をたてて地平線に消える。いささかも衰えぬ倦怠に似て退屈な瑣事を捻り出す。
    --ジークフリート・クラカウアー(船戸満之他訳)「倦怠」、『大衆の装飾』法政大学出版局、1996年。

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