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【覚え書】エリ・ヴィーゼル「無関心と闘うことが至上命令」

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月曜は休日ですが、授業回数の調整の必要上、短大で哲学の講義。
おわると市井の仕事で、かえる直前に、今は別の店舗に勤務されるている方ですが、お世話になった方の仕事上での来訪あり、こ1時間ほど、現在の業務改革について談義。

帰ってくるとこの時間で考える暇がなかなかないのですが、すこし帰ってきてから資料を整理していると、これも、「忘れてはいけない内容だ」と実感しながら、入力まではしたので、ひとつどうぞ。

一杯やって、今日は寝ます。

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無関心と闘うことが至上命令
 これは、無関心に対する闘争が決定的勝利をおさめたことを意味するのだろうか?防衛手段をもたぬ者たちにとって、無関心はもはや脅威を表してはいてはいないことを?残念ながら、答えはノンてある。無関心に対する闘争はいまでもひとつの桃戦であり続ける。それは日々わたしたちに訴えかける。そして、新たなる世紀が民族と民族との歩み寄りを追求するとき、この闘争こそがその主導権を握らねばならない。
 ユダヤ人としてわたしが後ろ盾とする聖書の伝統は、わたしたちに神はその被造物とは決して隔たっていないと教えている。神は神であるがゆえに、無関心をのぞいたすべてである。神は神であり、人間はその被造物であるがゆえに、人間は無関心をのぞいたすべてとなりうる。

 ユダヤの律法や教義の注解を集めた書、タルムードの断章の多くはその美しさゆえに感動せずには読めないが、そこには、人間の探求と生命における神の積極的な関わりが描かれている。神は人間の苦悩に心動かされるのと同様に、その願望にも心動かされる。神は人間の祈りに耳を傾け、その夢に入り込む。

 エルサレムの神殿が破壊されるとき、神は涙を流す。その涙のひと粒ひと粒が、わたしたちの涙とまざりあう。神は国を追われた自らの子たちのあとを追う。その子たちと同じように、わたしたちのだれとも同じように、神は解放を待つ。その解放は全世界的なものとなるだろうし、また全世界的なものでしかありえない。そして神が人間の苦悩に心動かされるのと同様に、人間もまた神の苦しみに対して、そしてまた、いやそれ以上に、同胞の苦しみに対して心動かされるところを示さねばならない。これは、人間どうしの関係において、悪に対する無関心は善の敵であることを意味する。なぜならば無関心は、人間の尊厳を指し示し、深めうるものすべての敵だからである。極端な場合には、無関心はその主体と対象とを蝕む。無関心の虜となった者は、もはや外側の世界も、内面の宇宙も見ることがないだろう。もはやなにも目にはしないだろう。そうなれば、無関心はただ罪であるばかりでなく、罰ともなる。他人の死に対する無関心は、遅かれ早かれわたしたちを自分の死にも無関心とするだろう。どんな共同体でも、その共同体の窮乏と苦痛とに無関心であろうとすれば、しまいには自分たちの共同体のそれにも心動かされなくなるだろう。生者の無関心は、その人間の耳と口をふさぐ。つまりその人間を、よき驚きであれ、それほどよくない驚きであれ、存在の驚きに対して閉ざされたものとする。

 だからこそ無関心と闘うことが絶対的な至上命令となる--わたしたちの内部で、そしてわたしたちの周囲で。わたしたちのなかのある者にとって、これは一瞬たりとも忘れえぬ一種の脅迫概念となった。どこでもわたしの話に喜んで耳を傾けてくださる人びとのいるところで、わたしが何年も前から繰り返してきたことを、ここで言ってもよいだろうか?愛の対極にあるのは憎しみではない。無関心である。美の対極にあるのは醜さではない。無関心である。知の対極にあるのは無知ではない。それもまた無関心てある。平和の対極にあるのは戦争ではない。無関心である。生の対極にあるのは死ではない。無関心、生と死に対する無関心である。

 無関心とどう闘えばいいのか。わたしたちは教育によって無関心と戦い、思いやる心によって、そのカをそぐ。もっとも効果的な治療薬?それは記憶、いついかなるときでも記憶、である。

 以上が、新たなる世紀の到来を--もしかしたら誕生するかもしれない新たなる人類の到来をも-‐ともに待ちながら、目撃者としてのわたし、ユダヤ人としてのわたしが、日本の友に伝えたいことである。わたしたちはすでに知っている。ひとつの民族が苦しむとき、他のすべての民族もそれに傷つくことを。そして、ひとつの危険がある共同体を脅かすとき、目標となっているのは他のすべての共同体であることを--だからこそ、もはや恐怖のなかではなく、苦悩や欠乏のなかでもなく、ごく単純に希望のなかで、たがいに歩み寄る時がきているのてはないだろうか?
    --エリ・ヴィーゼル「ふたつの世界大戦を超えて --20世紀は「暴力の世紀だった。日本の友にこれだけは伝えたい」、『文藝春秋』文藝春秋、2000年1月。

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コメント

お忙しいところ、失礼致します。

 「菊花展示会」の お花でしょうか。
 PCの 背景に設定させていただいても、よろしいでしょうか。

    

投稿: T | 2008年11月 4日 (火) 23時28分

Tさんゑ

ご指摘の通りです、月曜、大学から帰る前の、教員バスに乗るぎりぎり5分前に正門まで行って撮った写真ですので、あまりデキはよくないです(苦笑)。

デスクトップの背景に使って頂けるとはもったいないかぎりです。

投稿: 宇治家 参去 | 2008年11月 5日 (水) 01時30分

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