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ラーメン屋で読むホワイトヘッド、そして宗教学の必要性

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 「宗教」は、いつでも「憎しみ」の同義語になっていなければならないのだろうか。宗教に対する大きな社会的理想は、それが文明を統一するための共通基盤であってほしい、ということである。それによって、宗教は、粗野な力の一時的な衝突を超えてみずからの洞察を正当化するのである。
 この議論は、プラトンの思想と、キリストの生涯とキリスト教神学の最初の形成期という、三つの絶頂的局面に注意を集中してきた。しかし、伝説的な先行者たちと近代のその後継者たちによる、この十二世紀間全体が、キリスト教の物語を完成するために必要とされる。この物語は、あくまでも、さまざまな水準の洞察に属する諸観念の交渉に関わっている。宗教的精神はいつでも、簡単な説明で片づけられたり、歪められたり、葬り去られつつある。にもかかわらず、文明に向かう人類の旅が始まって以来、宗教的精神は常にそこに存在しているのである。
 <神学>の任務は、<世界>が、いかにして単なる移ろい行く事実を超えた何ものかに基礎づけられているかを示し、<世界>が、消滅していく諸契機を超えた何ものかにどう帰趨するかを示すことである。時間的な<世界>は、有限な達成の舞台なのである。われわれが<神学>に問い訊すのは、消滅していく生命のなかにおいても、われわれの有限な本性に固有の完成を実現するがゆえに、不死であるあの要素を表現することである。このようにしてわれわれは、生命がどのようにして喜びや悲しみよりも深い満足の相を含むかを理解するだろう。
    --ホワイトヘッド(山本誠作・菱本政晴訳)『ホワイトヘッド著作集 第12巻 観念の冒険』松籟社、1982年。

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子供も塾に行ってしまい、休日一人で家にいることができたので、仕事がはかどること、はかどること。

12月アタマにスクーリングもあるので、短大の講義も日程的にモロかぶりですので、今のうちに余分に仕込んでから、出張書類の作成--これがまた面倒なのですが、おそらく馴れた教員ならお茶の子さいさいなのでしょうが、自分はそうはいかず--と格闘してなんとか提出、おまけに、すこし論文の方へも手を入れていると、腹が減る。

アタマを使うと、俗に甘いものが欲しくなったり、腹が減ったりするといわれますが、あれは事実かも知れません。

ちょゐと気分転換へと、外へ出ましたが、近所に美味い蕎麦屋がないので、久し振りにラーメン屋へ向かい、炙りチャーシュー味噌ラーメンを注文する。
半年ぶりのなのですが、炎天下、「ふうふう」いいながら汗を流しながらラーメンを食べるのも夏の快味なのですが、寒さほとばしる晩秋から初春にかけて、冷気の中、ラーメン屋ののれんをくぐり、くぐると同時に眼鏡が真っ白になるのをかき分け、凍てついた五体の隅々まで広がるスープの温かさに酔いしれるのも、また痛快です。

この店は、きちんとチャーシューをバーナーで炙ってくれるところがまた味があり、ときおり利用しております。

で--。
時代小説はよく読みますので、蕎麦やうどんをたぐるくだりにはよく目にしますから、蕎麦を年がら年中所望するわけで、週に一度は食べております。しかし、そういえば、「うまそうに」「ラーメン」を食べる情景を描いた作品には未だ出会ったことがなく、いつかは幸福な出会いを経験したいものだなあ~と、ラーメンを食べながら思った次第です。さりとて、現代の日本の小説は殆ど読みませんので、難しいのかも知れません。

さて、冒頭は、プロセス神学を代表する神学者・哲学者として有名なホワイトヘッド(Alfred North Whitehead,1861-1947)の言葉から。ラーメン屋で読むような本ではありませんが、ぱらぱらめくっていると吸い寄せられてしまいました。

宇治家参去としては、いわば神学とか宗教学が実際のところ、専門になりますので、必然的にこうした文献とはよく格闘するわけですが、宗教学を学ぶ必然性はこうした現代だからこそあるのではないだろうか……そう思うことが屢々あります。

現今だけでなく、歴史上の宗教間対立の問題は、乱暴な言い方ですが、ほとんどが「無知や誤解」に基づくものが殆どであります。宗教学は19世紀半ば以降、もともとは神学の一部門として誕生した学問です。そこでは、当初、ヨーロッパ世界の世界史的拡大という状況を背景にして、キリスト教以外の宗教とキリスト教をどのように対峙させていくのか--そうした神学的理念をもって、比較宗教という形で誕生した学問ですが、学の進展のなかで、そうした先験的な認識への反省も出来し、そのなかで、特定の宗教を「弁証」する学としての学問ではないという立場を取るようになりました。それがここ百数十年の歩みだと思います。だから宗教学では、どの宗教が正しいとか、どの教えが優れているかということには全く関心がありません。極端な謂いですが、そこで求められているのは、対象に対する精確な記述ということです。もちろん、いうまでもありませんが、そうした姿勢に見られる「客観性」とか「価値中立性」とか「学としての科学性」という部分の問題も重大に存在しますが、ここではとりあえずひとまず措きます。

戻ります。

ですから、これもかなり大雑把な言い方になりますが、広い意味での宗教学といった場合、宗教に関する基礎的な知識の記述・研究といった部分が主軸になってきます。そのなかで、たとえば教団論を扱っていくアプローチとして宗教社会学的なそれだとか、聖典の編纂をたどるような文献学、心理的プロセスを記述し、そのメカニズムの解明を目指す宗教心理学、また、宗教現象をどのように理解していけばよいのか、そうした問題を課題とする宗教現象学とか解釈学といった専門性に分岐していきます。

とはいえ、最初にいったように、宗教を学問の対象として俎上に上げる一番大きな問題は、宗教が人間に限られた現象であるがゆえに、それに関する知識をきちんと記述し、整理し、その内容を解明することが最大の目的になってくるのだろうと思います。

では、そうした学問を学ぶという意味はどこにあるのでしょうか。

かつて、文豪ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe,1749-1832)は「一つの言語しか知らない者は、どの言語も知らない者だ」という言葉を残しましたが、その言葉を参考にして、初期の宗教学者で、比較宗教学の祖と言われるマックス・ミュラー(Friedrich Max Muller,1823-1900)は次のようにいっております。

すなわち……
「一つの宗教しか知らない者は、いかなる宗教も知らない」。

この部分がおそらく宗教を学ぶ意味に通じてくるのだろうと思います。

自己に信仰する宗教に対する確信は絶対的でなければなりません。
そうでないと、信仰が内崩してしまうし、信仰する意味もないし、信仰そのものが成立致しません。しかしながら、その絶対的な確信をもちながらも、必要なのは、他者に対する基本的な知識や基礎理解も持ち合わせる努力を惜しまないということだと思います。

無知や誤解を自分自身で「認識」する……それが宗教学の醍醐味であり、必要性なのだろうと思います。宗教学はあくまで、特定の宗教の「弁証」を目指しません。しかしながら、学んだ個人がそこから「弁証」することは可能でしょう。しかしながら、それが敵意や悪意の増幅に直結させてもならない自覚も必要なのだと思います。

「自分が“絶対”と信じる・思う」という現象は、「自分」一人の問題ではありません。そう思う他者が存在する--その自覚をお互いに共有する、そして、他者認識を絶えず磨き上げていく……そうしたところの基礎知識を提供するのが一番広い意味での宗教学になってくるのだろうと思います。

そうした生きる流儀を学ぶことによって「 『宗教』は、いつでも『憎しみ』の同義語になっていなければならないのだろうか。宗教に対する大きな社会的理想は、それが文明を統一するための共通基盤であってほしい、ということである。それによって、宗教は、粗野な力の一時的な衝突を超えてみずからの洞察を正当化する」ことができるのかもしれません。

ただし、自分自身としては、やはりどこまで言っても神学の学徒になりますので、後半部分、すなわち「<神学>の任務は、<世界>が、いかにして単なる移ろい行く事実を超えた何ものかに基礎づけられているかを示し、<世界>が、消滅していく諸契機を超えた何ものかにどう帰趨するかを示すことである」なのだと思います。

重くナイーヴな課題ですが、有限な時間的存在である「世界」のなかで、「生命がどのようにして喜びや悲しみよりも深い満足の相を含むかを理解」する手掛かりを掴んでみたいものであります。

とわいえ、これが、また金にならない学問でして……細君の眼が痛いです。

しかし、久し振りに食べたラーメンは美味でした。
心と体が喜んでおりまする。

これから予約していたボジョレーヌーヴォーを取りに行こうかとも思いましたが、まあ明日でもいいか……。

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