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【覚え書】M.ヴェーバー 「文化科学的認識の主観的拘束」

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学問の内容そのものに対する関心は、そのひとの個人的な知的関心とか、資格取得とか必要性のからみから対面し、知的訓練を体験していくわけなんですが、そもそも、学とは何かという学問論に関しては、初学者のみならず、アカデミズムの世界でもあまり省みられない、ほそぼそとしたジャンルでございます。

いわば、学問とは何か、そしてその学問のいう「客観性」とは何か、そして学問と向かい合う此処の存在者の「主観性」とは何か、そしてそれがどのように絡み合うのか……そういう世界を探求する分野でございます。

ちょうど、修士論文のころ、宇治家参去は、近代における宗教学の誕生とキリスト教の関わり周辺を課題にしておりましたので、こうした学問論とは必然的に向かい合うことが多かったものです。

かなり引用しながらも、そして自説の典拠にする部分も多いのが、社会学者のマックス・ヴェーバー(Max Weber,1864-1920)なんですが、実は結構苦手な対象です。しかしながら、ヴェーバーの学問論(価値自由の問題)を超える労作にはなかなか出会うこともできないのが事実であります。

あまり考察できておりませんが(いつもの通りですね)、たまたま、今日、仕事の休憩中に再度読んでいると、ここは大事だなあ~という部分がありましたので、自分自身に対する覚え書としてのこしておきましょう。

来週末、勤務校の学事関係の都合のため、今週は市井の仕事が久しぶりに6連チャンなので、開いている時間を有効に使わなければならないのですが、仕事の合間に、研究やっているという状況ですねぇ~。
なんとかしないとマズイです。

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 さてこれまで述べたことの結果として判明することは、経験的なものを「法則」に還元することが科学的な研究の理想的な目的とみなさなければならないのだ、との意見に従って文化事象を取り扱うことが、「客観的」取り扱いなのだとすることは無意味であるということである。そしてその取り扱いが無意味だというのは、これまでよく主張されていたように、文化現象、また例えば精神現象というものは「客観的には」法則的に経過することがほとんどないからではなく、(一)社会的な諸法則〔例えば資本主義社会の運動法則〕を認識することは社会的に現にあるものの認識には決してならなくて、むしろそれは社会的な現実の認識のために我々の思惟が用いるさまざまの補助手段のうちの一つに過ぎないからであり、また(二)一定の個々の諸関係をとりながら、常に個別的な性質をもつ生の現実が我々に対してもつ意義を基礎としなければ、いかなる文化事象の認識も考えられないからである。ところが、この現実がいかなる意味をもつときに、またいかなる関係をとるときに、意義をもつものかは、いかなる法則でも露わにはしてくれないのである。というのは、このことは〔法則ではなく〕価値理念に拠って決定されるからである。我々は個々の場合にこの価値理念のもとに「文化」をそのときどきに応じて考察するのである。「文化」とは意味のない無限の世界の出来事のうちから切り取られ、人間の立場から意味を汲みとり、意義を与えた有限の一片なのである。
 人間がある具体的な文化を仇敵として敵視し、「自然への復帰」を望むときでも、人間にとってその文化は文化なのである。というのはこのような敵視の態度をとり得るもの、彼が具体的なその文化を自分の価値理念に係わらせて、そこからそれをあまりに「軽薄すぎる」と思うからである。ここですべての歴史的な個体は論理上必然に「価値理念」に根を下ろしていると語られる場合には、ある事象が歴史的個体を構成するための純粋に論理的にして形式的な要件のことがいわれているのである。あらゆる文化科学の先験的な前提は、我々が白紙で我々の前にあるある一定の、あるいは一般に何らかのある「文化」を価値があると思うことではなく、我々が意識的に世界に対して観点を決め、かつ、これの意味を意味づける能力と意欲とを具備した文化人である、ということである。この意味がたとえどのようなものであっても、我々は生活の場の中で人間の共存の一定の諸現象をこの意味をもとにして判断し、これらの現象が意義あるものとして、これらに(積極的にしろ、または消極的にしろ)観点を決めるよう、この意味が導くであろう。このような観点を決めたことの内容がたとえどのようなものであっても--これらの現象は我々から見て文化意義をもつものであり、それらの現象の科学的な関心はただこの意義に基づいているのである。したがって今ここで現代の論理学者の用語に賛成して、文化認識が価値理念によって制約されていることについて語るとしても、それは文化意義がただ価値ある現象にだけ分け与えられるのだ、という意見のように受けとって、きわめて大ざっぱな誤解を引き起こすことのないようにして欲しい。つまり、売淫制度は宗教や貨幣と同じ程度に一つの文化現象なのである。以上の三つがすべて文化現象であるのは、それらの存在とそれらの歴史的にとる形態とが我々の文化関心に直接にか間接にか触れるからであり、以上三つの概念で考えられている現実の断片を我々に対して意義あらしめているところの価値理念から引き出される観点の下で、三者が我々の認識意欲をそそるからであり、しかもこの理由においてのみ、かつその限りにおいてのみそうなのである。
 文化現実の認識はすべて以上述べたことから判明するように、いつも特殊個別化された観点から行われる認識である。我々が歴史家や社会研究者に対して基本的な前提条件として、彼らが重要なものを重要でないものから区別することができ、しかもかかる区別をする際、それに必要な「観点」をもつよう求めるとすれば、それは彼らが現実の諸事象を--意識的にしろ、無意識的にしろ--普遍的な「文化価値」に係わらせ、さらにこの価値によって我々から見て意義あるようなその連関を取り上げ得ることを知っていなければならない、ということを意味するに過ぎない。このような観点は「素材そのものから引き出さ」れ得る、というような意見が繰り返し現れるとしても、それ以下のことに気づいていない専門家の素朴な自己欺瞞からきていることなのである。
    --マックス・ヴェーバー(祇園寺信彦・祇園寺則夫訳)『社会科学の方法』講談社学術文庫、1994年。

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