« 和平(やはらぎ)を求むるものは福(さいわい)なり | トップページ | 道徳的に厳しく悪いことを許さないイメージ »

私自身を憂慮の重荷から解放し、書くことで心を慰めるためです。現代の悲惨はすでに絶望的だからです

01_rimg0004 02_rimg0005

幸い二日酔いにならず見事に短大へ出勤し、本日は無事故で推薦入試の面接官業務を遂行でございます。

少子化……もとい、高校生への受験指導的に言うならば……少子高齢化といった方がよいのでしょうが……そうした事態が進行するなかで、毎年、志願者数、倍率が著しい低下を見せなる現況に反して、むしろ高騰という状況を招来している宇治家参去の勤務校は「異色」の高等教育機関なのでしょう……。

受験生一同及び教職員・役員に対して、創立者より伝言も頂戴するなかで、一名の欠席者をだすこともなく、本当に「無事故」で推薦入試が終了しました。
※しかし、「一言」いうならば、面接なので審査する方も生命力を使ってしまいました。しかしそれは心地よい疲れであります。

いうまでもありませんが、こうした教育機関で教鞭をとらせて頂いていることへの感謝と身の福徳を決して忘れてはならないと思います。
たえず、「精神の間断なき飛翔」(レオナルド・ダ・ヴィンチ)を目指して、自己自身も錬磨し続けなければならないとの実感であります。

重ね重ねですが、受験生の皆様、本当に本学を選んでくださり、誠にありがとうございました。来春より本学で宇治家参去をお見受けした際は、どうぞ宜しくお願いします。

これまたいうまでもありませんが、近すぎると酒臭いかもしれませんので、若干、距離をおいて話しかけて頂けると快適かと存じます。

さて……終了後。

これまた勤務校?といいますか……同じ敷地内の大学の通信教育部で教鞭を執っているのですが……本年・年頭、大阪での地方スクーリングにて熱心に宇治家参去の倫理学の講義を一番前に坐って聞いてくださった学生さんが、これまた折良くこの週末の秋期スクーリングに参加されてい、「すこし懇談??しませんか?」とのことでほぼほぼ一年ぶりの再開へと……。

合流するまでは、月曜の授業の仕込みと、研究所紀要の初稿の手入れに専念で、なかなか有意義といいますか、朝から学問専念できたことが少々嬉しい宇治家参去です。

スクーリングが終了した18時前は、もはや真っ暗……。

危ぶまれていた降雨にはならず、合流後、八王子駅北口の「月の雫」で、旧交を温めつつ、闊達な談論の花が咲いた次第ごでございます。

ある意味で言えば……物理的なハードフレームな側面に注目すればということですが……短大と対極にあるのが通信教育部なのだと思います。片や18歳前後の学生たちオンリーな世界、片や18歳前後から人生の大先輩たちまでの学生さんたちの世界です。

両者は四大ともちがう精神世界でございます。

おもえば、様々なひとびとと交流をするなかで、何が学問なのか……というところをいつも突きつけられます。ある意味では、智慧とか知識とかを考えさせられる契機になるわけですが、通信教育部を受け持っていると、それがほんとうに有難いところだなと感じます。そしてそれが限定的な職域・年齢世代の短大生と照射しあってい、それが自分自身の学問性を磨き抜いてくれることに感謝でございます。
※いうまでもありませんが、前者においても極めて「学ばせて戴く部分」は無限大に存在するのですが、その部分は後日論じるということで。

で……、
本日は、「月の雫」にて、人生の先輩と快飲させていただいた訳ですが、種々、学ぶところがございました。

ひとつ目は、やはりなんといっても、本学創立者が常々ご教示されている点ですが、「誰のための学問か」という部分です。表現としては通俗的には「大学は大学に行けなかった人の為に存在する」といわれますが、様々な経験を経て、通信教育という体裁でありながらも、「学を問う(=訪う)」(@和辻哲郎)という学生さんたちと交流するなか実感するのが次の部分です。すなわち、学生さんたちは「すでに学んでしまっている」という状況です。

この「すでに学んでしまっている」ということは何かと申しますと、育児や家事や、仕事や地域の社会活動のなかで、いわゆる学問の領域で問題となっている部分に、実は直面しているという事実です。しかし、たとえば、経験はしているのですが、それが「言葉にならない」……そういう状況が存在します。

そこが実は現実のもやもやであり、言葉にならないジレンマです。

それをそっと、うしろから「後押しする」、「言語化する」、そして、「未来へ繋ぐ」……それが智慧とか知識の役割なのかな?などとふと思うことがあります。

しかし、それが結合された瞬間が実は、極めて「美しい」んですよね!!

書物の中の言語が、日常生活の中で立ち上がり、そして生きた言語として機能する。そして当人へ知識を与えるだけでなく、いきていくうえでの希望とか、彩りを添える契機となる……そこが、通信教育……博く言えば生涯学習の要なのかもしれません。

快飲しながら、学生さんのもつ生命の溌剌とした輝きと学ぶ姿勢の真剣のもつ美しさにに、一種のまぶしさと眩暈(カミュ)感じた宇治家参去です。

「お土産」までご持参下さり、号泣の至りでございます。
新大阪駅限定のウルトラセブンストラップには、愚息も号泣予定でございます。

ぶっちゃけ、吹けば飛ぶような宇治家参去です。
博士論文は仕込んでいますが、学位授与(予定)はちょい先で、しかも、学位があったからといって目処のたつジャンルでもございません。
「自画自賛」のようで、恐縮ですが、そうしたヘタレでナイーヴでチキン野郎ですが、そうした代換不可能な「顔」(レヴィナス)を持つひとりひとり向かい合うなかで、「丁寧」に生きていくなかにしか自分自身は存在しないのかもしれません。

しかし、そんなヘタレ小僧に声をかげてくださり、ホンマにありがとうございました!
そうした薫陶に薫陶される学者といいますか教育者といいますか倫理学者(ホンマは神学者だろ?)の身の幸福を実感する宇治家参去です。

で……引証しとかないと宇治家参去ではございませんでしょ?

ということで、ひとつ。
ルネサンス初期の人文学者・文学者・詩人のペトラルカ(Francesco Petrarca,1304-1374)の言葉にでも耳を傾けてみましょうか。

-----

 私はふんだんに範例を用いますが、それはすぐれた本物の範例です。しかも、私の思いちがいでなければ、こころよさとともに権威の宿っているような範例なのです。その使用をもっと控えることもできるように、という人もいます。たしかに、私も範例なしですますこともできましょう。いな、沈黙することだってできるでしょうし、おそらくそのほうが賢明でしょう。
 しかし、こんなにおびただしい現代世界の諸悪、こんなに多くの破廉恥のあだいにあっては、とても黙ってはいられません。私はまだ諷刺的な作品を書いたことがありませんが、この一事を見ても、私は充分に忍耐を示したように思われます。この醜悪な現代よりはるか以前にもつぎのように書かれているのであれば、なおさらです。
  諷刺を書かずにはいられない。  (ユウェナーリス『諷刺詩集』第一歌三〇)
私はおおいに語っているし、おおいに書いてもいます。現代に益をなすためというよりも、私自身を憂慮の重荷から解放し、書くことで心を慰めるためです。現代の悲惨はすでに絶望的だからです。
 しかし、なぜ私はときとして範例をふんだんに用いるのか、ことさら範例に執着するようにみえるのか、そのわけをたずねられたら答えましょう。読者も私とおなじ考えだろうと思うからだと。
 すぐれた人たちの範例ほど私を感動させるものはありません。じっさい、みずからを高めるのは有益です。また、自分の精神にもどこか強化ところがあるか、どこか高邁で、逆境にもたじろがぬところがあるのか、みずからを欺いてはいないか、といったことを吟味するのも有益です。そしてそのための最良の方法は、万事にもっとも確かな教師である経験によるほかは、自分があやかりたいと願っている当の人びとの精神と自分の精神をくらべてみることです。こういうわけで、私の読む著作家がしばしば範例を提示してこうした吟味を可能にしてくれるなら、私はひとしく彼らに感謝をささげるのですが、そのように私の読者からも感謝されたいのです。この希望はおそらく私の錯覚ですが、いまあなたに語っていること自体は真実です。じっさいこれが、私の文体の真因の第一なのです。
    --ペトラルカ(近藤恒一訳)「範例の効用を範例で示して フラ・ジョヴァンニ・コロンナに」、『ルネサンス書簡集』岩波文庫、1989年。

-----

ほんとうにこういう引用と文章を書いてみたいものでございます。

03_seven_coor

|

« 和平(やはらぎ)を求むるものは福(さいわい)なり | トップページ | 道徳的に厳しく悪いことを許さないイメージ »

現代批評」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/451663/25369882

この記事へのトラックバック一覧です: 私自身を憂慮の重荷から解放し、書くことで心を慰めるためです。現代の悲惨はすでに絶望的だからです:

« 和平(やはらぎ)を求むるものは福(さいわい)なり | トップページ | 道徳的に厳しく悪いことを許さないイメージ »