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うまく世渡りをするには悪魔も時に尊敬せざる可(べか)らずサ

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 私は生来からだが非常に弱い。学校時代の体格検査はいつも丙だった。それだのに物心ついてから會(かつ)て病気といふ程の病気をしたことがない。前にも云つた通り、三十九度位の熱なら知らずに居ることが多い、少し悪寒気を覚へる気分も変だなと感ずる時は、大抵九度五分を超へて居る。今度も九度六分になつて始めて気がついた。夫(そ)れでも机に対して本を読んだり物を書いたりするに懶(ものう)くない。大抵の風邪なら夜好きな釜揚うどんの一杯を腹につめて寝れば翌朝はきつと直る。別に無理押をするつもりはなかつたが、案外からだには自信があつた。そして自分で斯(こ)んなことを考へて居た。人間は活きものだ。従て必要なものを自ら創造する、だから医者が三日かゝつてなほる筈(はず)とみた病気も一日でなほるのであらうと。今までは此流儀でどん~~押して行けたのである。
 病院にゐたとき、木下尚江君が見舞いに来られた。右の様なことを話したら、「そんなこと君の著書に書いてあつたつけ」と笑つて居られた。『斯く信じ斯く語る』の中にそんなことを書いてあつたのだ。熱があつても押して行つたり風邪も釜揚うどんで追つ払ふなどの我儘が嵩(こう)じたから斯んなことになつたのだ、チヨイ~~と来る警告を無視して思ふ存分に当り散してゐると、昨年のやうな筆禍事件も起る、今度の病気もつまりあれだネと木下君は附け加へた。だつて警告する方が間違つてゐるんで、己の方が正しいんだよ、からだの事だつて平素弱いと知つてゐるので人一倍の注意はしてゐたんだが、と答へたらそれだテ、自分が正しいだけでは通らぬよ、うまく世渡りをするには悪魔も時に尊敬せざる可(べか)らずサ、と木下君は気持よげに呵々(かか)大笑した。
    --吉野作造「転地先から〔抄〕」、『文化生活の基礎』1925年9月。

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吉野作造(1878-1933)では御座いませんが、金曜の深夜に「風邪ひいたなあ~」などと感じており、吉野作造の場合でしたら、「大抵の風邪なら夜好きな釜揚うどんの一杯を腹につめて寝れば翌朝はきつと直る」わけなのですが、宇治家参去の場合ですと「大抵の風邪なら夜好きな日本酒だとかワインでも存分に腹につめて寝れば翌朝はきつと直る」と思っておりますと、どうやらおちつきまして御座います。

吉野作造先生、ご助言ありがとうございます。
さて、吉野作造の文章を連日読んでいると、思う部分が二つあります。

ひとつ目が、吉野作造の文章は、政論(民本主義の立場からの現実の政治に対する批評)よりも、自己自身をそれとなく「ポロッ」と語っている文章が、存外に面白いということです。うえの文章もそうした吉野の日常生活をかいま見せるいったんなのだと思います。宇治家参去は、吉野作造の生まれ育った宮城の麺文化を存じませんが、おそらく幼少時より「あつあつ」の「釜揚うどん」を食することで、からだにパンチを入れ込んでいたのだろうと思います(読んでいて「うどん」が食いたくなりましたでございます)。

そしてもうひとつが、ヴォルテール(Voltaire,François-Marie Arouet,1694-1778)のいう「君の意見に賛成できないが、君が意見を述べる権利は死んでも守る」( Monsieur l'abbé, je déteste ce que vous écrivez, mais je donnerai ma vie pour que vous puissiez continuer à écrire.)」この部分です。これは自分自身も生きる上でのひとつのモットーにしておりますが、実に、理論とか理屈としてはこのことに対して至極納得するし、そうあらねばならないと思うのですが、現実には、なかなかそれが実践できない部分があるのです。

すなわち「君の意見に賛成できない」し「君自身の権利も認めない」……そういう方向に流れがちなのが現実態でございます。

しかし、吉野作造の場合、それを地でやっていく、そしてそれを意識的な問題としてではなく、自然体でやっていくところに惹かれていってしまいます。うえの文章では、弱った吉野をキリスト教社会主義者の木下尚江(1869-1937)が訪問するくだりが後半部分に出ておりますが、実はこの文章が書かれた20年前から吉野作造と木下直江は、ルソーのいう「一般意志」(国家の目的論)をめぐって喧々諤々の論争を展開し、結局、両者はものの考え方に関しては水と油のごとく相容れません。しかし、ながら人間同士の温かい交流は終生続いているわけです。おなじように、民本主義を真っ向から否定し天皇親政を説いた憲法学者に上杉慎吉(1878-1829)がいますが、上杉と吉野は東京帝大では同僚です。お互いに学説は相反するわけですが、親密な交流は終生続いたと聞いております。

そうした吉野に宇治家参去は惹かれるのかも知れません。

「うまく世渡りをするには悪魔も時に尊敬せざる可(べか)らずサ、」と木下君は、吉野作造先生にアドバイスするわけですが、言論・言説の差異を乗り越える、人間主義者・吉野作造のようにありたいものでございます。

ということですこし調子にのって?ジオラマです。

よくできているよな~あなどと思う事なかれ。
このジオラマ写真、実は1分で出来ます。
航空写真モードのGoogleマップのうえに戦車を乗せただけでございます。
カラーにするとネタバレでございます。

お酒のお陰で風邪も吹き飛ばしましたので(本来は釜揚うどんがよろしいのでしょうが)、気分転換に「琥珀ヱビス」を、マック(McDonald's,関西では「マクド」がよろしいのでしょうか)で頂いた、コカ・コーラグラスで頂きます。

うめぇぇ~。

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