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軽薄さは深遠なわざである

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軽薄さ FRIVOLITÉ
軽率さ、あえてやっている気まぐれ、否、そういうふりをしていること。それはひとびとのまじめさに対する恐れ、問題の深刻さに対する恐れから出てくる。この意味において、軽薄さは深遠なわざである。
    --アラン(神谷幹夫訳)『アラン 定義集』岩波文庫、2003年。

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真面目にやらなければならないときに、真面目にやればいいのですが、それを四六時中やってしまうと、どこか息苦しくなってしまうのが人生の実情なのかもしれません。

ですから、宇治家参去は時折、不真面目?に軽薄?生きることを心がけております。聖人君主でありつづけられるのであれば、それはそれで宜しいのですが、人間という生きものは、なかなかそれを押し続けることができません。ですから、「真面目な」文学者とか哲学者というのは、自分で自分が許せなくなってしまい、自死を選択してしまったり、エピキュリアンのようにこの世から遠ざかることでその均衡を維持するよう努めるというパターンが多いような気もします。

しかしながら、生きてゐる人間は、生命活動の舞台である「生活」から「遠ざかること」を選択することは現実的には不可能です。

ですから、ときどき、Take it easy とでも申しましょうか、軽薄に背伸びをする必要があるのではないかと思います。

真面目であるとこと、そして不真面目であることは両立できるのではないでしょうか?
そう思う宇治家参去です。そして踏み込んで言うならば、その両端のみを選択するというのが、実は現実から逸脱したきわめて歪な生き方なのかもしれません。その両端の中間領域……すなわち白と黒の間の「中間色」こそもっとも重要なのだと思います。

特に近代日本のキリスト教の歴史を振り返ってみると、メインストリームとしては、道徳的に峻厳なピューリタニズムのそれとしての受容であって、そこから逸脱するあり方に、近代人の苦悩を読みとることがしばしばあるのですが、そうした慟哭・自省などを見ておりますと、本来の救いとは関係のないとまでは申しませんが、補助的なところに振り回された感もなくはないので、そのように考えることがときどきございます。

ま、ですから、時折、息抜きと称して学問から遠ざかってしまうと、「ポリティカリィー・コレクト・トークン」(村上春樹)で、細君から恫喝される日々でございます。
しかしながら、それは真面目に取り組むための燃料補給なのに~!と思うのですが、なかなか現実世界は難しい様相です。

さて……
今年は昨年よりも寒くなるのが早うございます。
10月末からコートを引っ張りだしましたが、今日はライナーまでつけてしまいました。皆様も季節の変化に十分ご注意を。

せっかくの息抜きが楽しめなくなっちゃいますもんね。

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真面目さ SÉRIEUX
重大さを予見した瞬間、人は真面目になる。真面目さには期待があるが、それを失うことを懸念してもいる。真面目さは警告する。真面目さには、その気になればいつでも軽薄になりうるというニュアンスがある。真面目さに対しては吟味を要する。重大さの方はまるで吟味する必要などないのに。したがって真面目さは外套のごとくに脱げ落ちる。ぼくは真面目だ、そいつは自分で欲しているからなのであって、いつまでもそのままではいないさ。なんとまあ、真面目さは注目を浴びることか!
    --アラン、前掲書。

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