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【覚え書】和辻哲郎『孔子』岩波書店。人類の教師の教師たる所以

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今から15年前の8月24日に読了したと奥付に書いてある本を再読していると、そのときに味わえなかった部分が、今になってしみこんでくるところがあったので、覚え書として残しておきます。

日本を代表する倫理学者・和辻哲郎(1889-1960)の孔子論ですが、解説にもあるとおり「全篇一貫する広い視野、随所にあらわれる知性の天才的なひらめき、達意の美しい文章から、あたかも第一級の推理小説を読む如き高度の代転びと楽しみが与えられる」一冊です。

美しいだけではなく、もはや解説の必要もないほど、丁寧に書かれた文章で、したの部分は、ちょうど、冒頭で孔子を論ずるにあたり、人類の教師としての孔子という問題を、他の人類の教師(四聖;孔子、ソクラテス、釈迦、イエス)の共通点として論じている部分ですが、種々考えさせられるものです。

論点を列挙することもできますが、それよりは、どうぞまず、ご一読を。

ちょい、年末で忙しく、全く考えることができない毎日ですが、何かのヒントになると思われます。

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 我々はここに人類の教師という言葉を用いるが、それによって「人類」という一つの統一的な社会を容認しているのではない。現代のように世界交通の活発となった時代においてさえ、地上の人々がことごとく一つの統一に結びついているというごとき状態からはるかに遠い。いわんや如上(じょじょう)の四聖が出現した時代にあっては、彼らの眼中にある人々は地上の人々全体のうちのほんの一部分であった。孔子が教化しようとしたのは黄河下流の、日本の半分ほどの地域の人々であり、釈迦が法を説いて聞かせたのもガンジス河中流の狭い地域の人々に過ぎぬ。ソクラテスに至ってはアテナイ市民のみが相手であり、イエスの活動範囲のごときは縦四十里横二十里の小地方である。が、それにもかかわらず我々は彼らを人類の教師と呼ぶ。その場合の人類は、地上に住む人々全体を意味するものでもなければ、また人という生物の一類をさすのでもない。さらにまた「閉じた社会」としての人倫社会に対立させられた意味での「開いた社会」をさすのでもない。それぞれの小さい人倫的組織を内容とせずには人類の生活はあり得ないのである。実際においても人類の教師の説くところは主として人倫の道や法であって、人倫社会外なる境地の消息ではなかった。彼らが人類の教師であるのは、いついかなる社会の人々であっても、
彼らから教えを受けることができるからである。事実上彼らの教えた人々が狭く限局せられているにかかわらず、可能的にはあらゆる人に教え得るというところに、人類の教師としての資格が見いだされる。従ってこの場合の「人類」は事実上の何かをさすのではなくして、地方的歴史的に可能なるあらゆる人々をさすにほかならない。だから人類は事実ではなくして「理念」だと言われるのである。
 人類の教師の持つ右のごとき普遍性は、その教師の人格や智慧にもとづく、と通例は考えられる。もしそうであるならば、これらの教師の活動を目前に見た人々の内には、直ちにそれを人類の教師として洞察し得る人もあってしかるべきである。だからこれらの教師の伝記を語る人々は、これらの教師が周囲から認められず、迫害や侮蔑を受けている最中にも、すでにこれらを人類の教師として承認している少数者を描くのである。しかし少数者のみがそれを真の教師として認め、大衆がそれを認めない時に、果たしてその教師は人類の教師であり得るであろうか。いついかなる社会にも、少数の狂信者に取り巻かれた教師というものは存在するのである。目前の我々の社会においてもその例は数多くあげることができるであろう。それらは世界の歴史においては幾千幾万となく現われ、そうして泡沫(ほうまつ)のごとく消えて行った。だから少数者の洞察などというものも、当てにならない方が多いのである。
 では大衆が直ちに目前の教師の人格や智慧を礼讃し始めた時はどうであるか。その場合には生前からしてすでに人類の教師となるはずではないか。しかるに事実はそうではないのである。大衆は必ずしも優れたもののみを礼讃しはしない。天才と呼ばれている人々が生前に大衆の歓迎を受けたという例はむしろまれである。いわんや人類の教師とも言われべき人々がその時代の大衆に認められたなどという例は、全然ない。人類の教師たり得るような智慧の深さや人格の偉大さは、大衆の眼につきやすいものではないのである。大衆の礼讃によって生前からその偉大さを確立した人々は、人類の教師ではなくして、むしろ「英雄」と呼ばるべきものであろう。もちろんこの場合にも大衆の礼讃した人々がことごとく英雄となるのではない。大衆はしばしば案山子(かかし)をも礼讃する。しかし生前すでに大衆の礼讃を獲得し得なかったような英雄もまた存しないのである。この点において人類の教師と英雄とは明白に相違する。人類の教師であると否とは同時代の大衆の承認によって定まるのではない。
 では人類の教師が人類の教師として認められるに至るのはいかなる経路によるのであろうか。言いかえれば、人類の教師はいかにしてその普遍性を獲得したのであろうか。
 通例伝記記者の語るところによれば、人類の教師は皆よき弟子を持った。その中には十哲とか、十大弟子とか、十二使徒とかと呼ばれるような優れた人物があった。そうしてそれらの弟子は、その師が真に道の体現者であり、仁者であり、覚者であることを信じ切っていた。同時代の大衆がいかにその師を迫害し侮蔑しようとも、この信頼は決して揺るがなかった。が、これだけならば前に言ったような狂信者に取り巻かれた教師と異なるところがない。大切なのはこれから先である。師が毒杯とか十字架とかによって死刑に処せられた後に、あるいは生涯用いられることなく親しい二、三の弟子の手に死ぬことに満足した(『論語』子罕一二)後に、弟子たちはその師の道や真理を宣伝することに努力した。この努力がたちまちに開花し結実したのはソクラテスの場合である。弟子プラトンと孫弟子アリストテレスとは、師の仕事を迅速に完成して西洋思想の源流を作った。これらの偉大な弟子の仕事が人々に承認せられれば、その弟子の仕事の中にその魂として生きているソクラテスが、一層偉大な教師として承認せられないはずはないのである。他の場合には弟子たちの努力は一世代や二世代では尽きなかった。現在残っている最古の資料は、いずれも孫弟子の手になったものと考えられる。釈迦については阿含経典の最も古い層がそうである。イエスについてはパウロの書簡も福音書もそうである。孔子に関しても同様のことが言えるであろう。『論語』は孫弟子の記録よりも古いものを含んではいない。そうした孫弟子たちは皆更にその弟子たちを教えるためにこれらの記録を作ったのである。だから最古の記録によってこれらの教師に接しようとするものでも、曾孫(ひまご)弟子の立場より先に出ることはできない。このことは教師たちの人格とか思想とが、時の試練に堪え、幾世代をも通じて働き続けたことを意味するのである。しかも彼らは働き続けるほどますます感化力を増大した。たといその生前にわずかの人々をしか感化することができなかったとしても、時のたつにつれてその感化を受ける人々の数はふえて行く。従って同時代の大衆を動かし得なかった教師たちも、歴史的にははるかに広汎な大衆を動かすことになるのである。かくして彼らは偉大な教師として動くことのない承認を得て来た。
    --和辻哲郎『孔子』岩波文庫、1988年。

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