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「気を散らされた催眠にまどろまない」食卓から考える

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 無気力な男

 彼はもういやなのだ。しかし、どこでどのようにか、ということを決して見ない。こうして、ひとに頼るこの男は、ひきつづき利用されつづける。かれ以外の別人のために、からだを張るのである。

 襟(カラー)

 だれしも、みずからすすんでというわけではあるまい。けれども、のちになると、しかるべく調子をあわせるようになる。なるほど、自分を売るものがつねに自分を残らず与えてしまうわけでは必ずしもない。労働者は、自分たちの身に生じることがらにたいして、敵対的に立ちむかう。だが、サラリーマンは、かれらの主人たちが勝手につくりだし、かれが自分からつくりだせるその像と、そっくりそのままになる。娘たちは慰めのない生活をいかに送るか(そして晩はただ次の日のためにのみ麻痺させてくれる)。男たちはいかに隷従をつづけ、自分にたいしては不満でも、交際は陽気にするか。他人さま次第という限界をいかにだれもが踏みこえないか。昼間は襟(カラー)*のなかで、晩はかれらのために特別に設定される安上がりな楽しみのなかで、かれらは自分が市民であるのを感じる。腹の足しにもならない義務感というやつで、かれらはいまなお自分の鎖をせっせと祖国のために磨きたてている。小都市では、かれらはきのうからそのまま生きているにすぎない。ところが大都市では、何度も引越しをするし、そのうえ、虚偽の輝きにみちた楽しみがある。だから、かれらはもはや、埃っぽいかびくささのなかの抑えつけられた細民ではない。だが、新しい細民、われを忘れて夢中になった、気をそらされた細民である。かれらがものごとに集中するようなことがないように、映画とか人種とかによって気を散らされた催眠である。
*襟(カラー)とは、もちろん、サラリーマン(ホワイトカラー)がつけていた白いカラーのことである。
    --エルンスト・ブロッホ(池田浩士訳)『この時代の遺産』ちくま学芸文庫、1994年。

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「解放の神学」(Liberation theology)にも多大な影響を与えている思想家に、ドイツ系のユダヤ人思想家・エルンスト・ブロッホ(Ernst Simon Bloch,1885-1977)という人物がおります。

ちょゐ、仕事の関係上で、ときどき読むことがあるのですが、上の引用は、第一次世界大戦後、それにひきつづく、ナチズムの温床・支持母体となったサラリーマンの実態に関するレポートの一節から。

事務的労働の飛躍的増加に伴い、第一次世界大戦後のベルリンのサラリーマン(ホワイトカラー)の比率は飛躍的に伸びたわけなのですが、事実上は、身分・賃金に関しても、当時の水準でいくと労働者階級のひとびととなんらかわらないにもかかわらず、一抹の自負を懐いて生活していたのが当時のサラリーマンの方々のようでございました。悲惨な賃金労働と不安定な生活、そして閉ざされた社会的地位の上昇への道--その意味ではなんらかわらないのですが、ルサンチマンと一体化した彼等は、どうも労働者と自己の差異を不断に強調していながらも、特権階級には食い込めないうなり声が、ナチズムの説く民族・人種・神話という大風呂敷に食い込まれていく様は、よんでいるとなんともいえません。
自分自身もしながない、汗を流すサラリーマンのひとりではございますが--。

で--。
古典的な嚆矢となるサラリーマン論はひとまずおき、仕事をしながらの実感をひとつ。
市井の仕事へ行くと、例の如く、マア、アリエナイ情況ですので、マネジメント業務をほっぽり出して、レジ打ち業務に投入されるわけですが、そのなかで、ひとつ実感することがございます。

それは、的確なデータとか、売り上げの抽出をおこなっているのではなく、実感レベルのアレですが、最近感じることが御座います。

たとえば--食品レジを打っていて--
じゃがいも、にんじん、たまねぎ、肉、そしてカレーのルーとかシチューなんかはいっていると、このカゴを持ってきた御婦人とか、お遣いを頼まれたお父さんはとか、またまたお遣いに来たお嬢さん・お坊ちゃんのお宅は--「カレー」とか「シチュー」だよなあ、となるものです。

じゃがいも、にんじん、でなくとも、たとえば、今日は季節柄「鍋」だよなとか「おでん」だよなあとか、「おっ、焼き肉ですか、すべて国産牛!」と理解できるわけです。

それが、最近--といっても、ここ1年ぐらいのことですが、おそらく未婚なのでしょうが--サラリーマンのお兄ちゃんとかお姉ちゃんでも、そうしたカレーの材料とか、鍋の食材とか、生鮮食品を購入する方がふえているなあ~という実感です。

家庭をもっていらっしゃる方とそうではない方との、二項対立とかステレオタイプ的な知の分断だ!とののしられそうですが、そうした単身の稼ぎ人・サラリーマン・職人さんであっても、なにか「家でつくる」為の「材料」を購入される方が増えているなあ~という部分です。

さまざまに解釈は可能だと思います。
「加工品とか、できあいの弁当・総菜だと栄養が偏ってしまうから--自分で作ろう!」
とか……
「もともと自分はマメな方でね、自炊した方が旨いんですよ!」
などと意見も出てきそうです。

それはそれで結構でヘルシーでいい話なのですが、果たしてそれだけなのかなあ~という部分です。もちろんブームによって、納豆がいいだとか、バナナがいいだとか、利益誘導されて、それに動く部分もあるのでしょうが、それだけでなく、コンスタントに、(調理しないと使えない)食材を購入されている方が増えていることに驚きです。

宇治家参去は、18歳で大学へ入学したと同時に独り暮らしをはじめ、結婚するまでおよそ10年間、そうした気ままな独身ライフをおくっておりましたが、結局、そのころ、「自分で作る」などという手間を経たことはほとんどございませんでした。

もちろん、生来の酒飲みですから、酒とつまみは購入しましたが、家で作って食べるという発想は、当時はまったくなく、「ひとりだから、必要な分だけかって処理するのが一番」というかんじで、親もそうエールを送る?ものですから、自宅で食べるのは晩酌のつまみだけで、ほぼほぼ外食ですませておりました。

コスト的にはもちろん、おそらく、コンスタントに作る方がいいのでしょうが、不定期なアレですから、90パーセント程度は外食ですませておりました。栄養的には難ですが、手軽さと時間のなさを考えると不可避的な選択だったと思います。

自分でまともに作るようになったのは結婚してからです。今でも、まれにですが、ときどきつくりますが、それも結婚してから覚えた調理になってしまいます。

その意味では、かつての自分と同世代のひとびとが、買い物かごにじゃがいもを入れ、タマネギをいれ、葱を入れ(葱購入者って多いんです!)……というのを見ていると……時代の違いもあるのでしょうが、食の安全とか栄養の問題とか……という以前の、社会的な経済の問題に実はなってきているのではなかろうか?……などとおもってしまいます。

どちらがいいか拙速な判断はできませんですし、経済状況が社会全体として、自分が若い頃過ごしてきたころよりも悪化してきていることも承知できますし、それ以上に食の安全とか栄養問題への関心の高さも承知しておりますから、これだと判断できません。

しかし、レジを打ちながら思うのは、食の安全とか栄養というよりも、経済的な防衛判断なのかな?……などと最近は至極痛感しております。

おもえば、自分の頃も、同世代でつくる人間というのは存在しましたが、こんなに頻繁ではなかったような気がします。

経済が逼迫する中で実態はどうなのか、食品レジを打ちながら、悩むある日の宇治家参去です。

昨日は、10ヶ月ぶりに休肝日を頂戴しましたので、安ワインと湯豆腐と「できあい」の葱チャーシューですが、すこし燃料を頂いて、明日の……もとい、本日の授業にそなえさせて戴きます。

しかし……最近、思うのですが、法学とか経済とか、もう少しきちんとやっておけば良かったなあと思います。学生時代にはそれはまったく書物の中における数値とか概念で霧散した対象ですが、生活者として生きる中で、根本となる哲学・思想・宗教だけでなく、その具体的展開にもすんごく興味があります。ですからすこし落ちついたら腰を据えて、そうした問題にも挑戦してみたいもので御座います。

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