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「大した意味をもたぬことのように思われる」などと高をくくってはいけない

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 一九七五年-七六年の激しい内戦のさなか、ベイルートを訪れたあるフランス人ジャ-ナリストは、その繁華街が廃墟と化してしまったのを見て、「かつてはここも、シャト-ブリアン〔フランスの小説家・政治家 一七六八-一八四八〕やネルヴァル〔フランスの詩人 一八〇八-五五〕描くところのオリエントさながらであったのに」と書き、その惨状を嘆き悲しんだ。たしかにヨ-ロッパ人の側からみるかぎり、彼がこの場所について語ったことは正しかった。オリエントとは、むしろヨ-ロッパ人の頭のなかでつくり出されたものであり、古来、ロマンスやエキゾチックな生きもの、纏綿たる心象や風景、珍しい体験談の舞台であった。フランス人ジャ-ナリストの目の前でいま消滅しようとしていたのは、そうしたオリエントなのであった。ある意味ではオリエントは過去にゆくりなくも生起した事柄だったのであり、オリエントの時代は過ぎ去ってしまったのである。おそらく彼にとっては、オリエントの人たちがそうした現実のなかでみずから身を賭して闘っているのだということも、またシャトーブリアンやネルヴァルの時代にだってオリエントにはオリエントの人たちが生活していたのだということも、さらにまた現に苦しんでいるのはほかならぬオリエントの人たちなのだということも、大した意味をもたぬことのように思われるのだろう。このヨーロッパ人訪問者にとっての最大の関心事は、オリエントに関するヨーロッパ的表象とその表象の今日的運命とであった。オリエントの表象ならびにその運命なるものには、このジャーナリストとフランス人読者だけが特権的に共有することのできる仲間うちの意味が秘められていたのである。
    --エドワード・W・サイード(板垣雄三・杉田秀明監修、今沢紀子訳)『オリエンタリズム 上』平凡社、1993年。

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東京に戻ってから、どうしてもポスト・コロニアル批評の嚆矢となり、方法論の礎を気づいたエドワード・W・サイード(Edward Wadie Said,1935-2003)の言葉が気にかかり再度『オリエンタリズム』をぱらぱらとめくっております。
※ポストコロニアル批評とは、それまで植民地だった地域で独立をしたものの、今なお根強く残る様々な課題を把握・解明するために始まった文化研究のことで、一般的には旧植民地と旧宗主国や周辺諸国との関係性に目をむけ、例えば、西欧中心主義的なものの見方へ疑問を投じ、そうした地域の文化の再評価と同時に、旧宗主国の文化の立場をも問い直す視座の提供を目指す学問のことです。日本の場合は、ヨーロッパとの関係のみならず、アジア諸国との関係をも考察の対象となります。

さて……問題は、「特権的に共有」される「表象」です。

サイードは、パレスチナ出身のキリスト教徒で、ハーバード大学で学位を取得した後、コロンビア大学で教鞭を執った現代の優れた知識人のひとりです。
主著の表題のとおり、オリエンタリズムの理論がもっとも有名です。

サイードによると、問題なのは、ヨーロッパ世界が歴史を通して自らの内部に持ち合わせていない「異質」なものとした部分を「オリエント」(東洋)に押しつけてきた=表象してきたという経緯です。

ヨーロッパ人の思い描いている「オリエント」。
そして作ってきたイメージ……。

ヨーロッパ(オチデント Occident)世界の、中東やアジアに対する、いわば誤ったイメージの長い伝統が、ここ数百年の植民地主義・帝国主義的発想を正当化する因子として機能してきたのではないだろうか……サイードの言説はそうしたところを丁寧に諭してくれます。

目に見える場合もあれば、目に見えない場合もあるわけですが、そうした発送が、例えば文学や歴史学、様々な学問、文化活動ににじみ出てきており、それがしばしば優越感や傲慢さ、偏見と結びつき、帝国主義的な発想の基盤とも成っている……。

このようなサイードの指摘は、単にヨーロッパとそれ以外の地域間の対比だけに限定された問題はありません。同じような権力構造・価値観をもちあわせているエスノセントリズムのような他文化や他国に対する思想・価値体系の優越性の主張もヨーロッパにおけるオリエンタリズムの問題となんらかわりありません。

大切なのは、「彼にとっては、オリエントの人たちがそうした現実のなかでみずから身を賭して闘っているのだということも、またシャトーブリアンやネルヴァルの時代にだってオリエントにはオリエントの人たちが生活していたのだということも、さらにまた現に苦しんでいるのはほかならぬオリエントの人たちなのだということ」なのですが、そうした表象世界においてはその事実はまさに「大した意味をもたぬことのように思われる」のでしょう。

異質なものに対する「憧れ」や「好奇心」は人間には存在しますし、それを帳消しにすることはできません。しかしそれと同時に、その「憧れ」や「好奇心」が何か固定的なイメージになってしまい、対象に向かう眼差しが対象そのものに対する「優越性」になってしまったとき、知られざる束縛・利益誘導として機能してしまうのでしょう。

宇治家参去自身の沖縄に対するイメージもおそらくそうした陥穽を脱し切れていないところがあると思います。

南国の楽園のイメエジ……。
エキゾチックな風習と文化……。
そして、地上戦の記憶と現在の駐留アメリカ軍の問題。

列挙するとキリがありません。

しかしながら、はじめて同地に足を踏むまでみえなかったものが、すこしだけ見えだしたような気もします。

本土の搾取は搾取なのでしょう。
そして、基地の問題は確かに問題なのでしょう。
いわれてみると確かにそれはその通りです。

しかし、大切なのは、やはり「彼にとっては、オリエントの人たちがそうした現実のなかでみずから身を賭して闘っているのだということも、またシャトーブリアンやネルヴァルの時代にだってオリエントにはオリエントの人たちが生活していたのだということも、さらにまた現に苦しんでいるのはほかならぬオリエントの人たちなのだということ」ことをすこし肌で感じることができた部分だろうと思います。

もちろん、苦しみばかりではございません。
そこには喜びもあれば怒りもあり、哀しみもあれば楽しみもあるのでしょう。

文化と文化の枠組みに枠をはめる先験的なものの見方はなかなかはずすことはできませんし、完全にはずすことは不可能なことも承知しております。だからこそその事実をふまえた上で、現実の眼差しを交わし合うなかで、試行錯誤していくしかないのだろうと生活実感のレベルでは感じております。

表象世界は確かに表象世界です。
しかし、現実の世界は表象の部分もあれば、リアルな側面も同時に存在します。
だからこそ、すべての事象を「大した意味をもたぬことのように思われる」などと高をくくってはいけないのかもしれません。

そうしたところ先週の週末は学んだような気がします。

さて……。
授業のなかで、気分転換に「平和をイメージするとどういう状況でしょうか?」とディスカッションしていただいた。
沖縄の方々いわく、「確かに基地がないということを第一にはイメージしますが、それだけで、じゃあ平和なの?ってなるとそうでもないような気がします」とのこと。

この意味は物質的なものが優先されるべきか、それとも精神的なものが優先されるべきかといった二者択一ではございません。

ともすれば、基地全廃か、それとも革命かのような単純な議論にながれがちなところに冷や水を浴びせる、現実感覚ではないだろうかと思った次第です。

生活に根ざしたところで生命を考え、何が可能なのか。
ひとりひとりの取り組みがまさに試されているのがこの現代だと思った宇治家参去です。

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