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絶対的に自己責任をもつ哲学

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やはり、病み上がりで仕事へいくとキツク、昨日は休憩中に、現象学の祖として知られるエトムント・グスタフ・アルブレヒト・フッサール(Edmund Gustav Albrecht Husserl,1859-1938)の著作をぱらぱらめくってはいたのですが、まったく頭にはいってこず。

それもそのはずで、病み上がりだと思っていたのが失敗で、上がっていなかったという点です。先ほどまで寝ていました。

休日をまた例の如く無為に消化してしまうある日の宇治家参去です。

フッサールは、もともと数学の研究者でしたので、強烈な基礎づけ主義の発想があるのでは?などと思っていましたが。読んでみるとその基礎付けとは、学が学として成立するためには、どのような発想が必要なのという探究だったのではないだろうか……などと思ってします。

フッサールの生きた時代、いわゆる「客観性」ということが問題となってくる時期なのですが、フッサールの議論は、「客観」ありきというスタイルではなく、どのようにして「客観」を多くの人々と分かち合っていくのか……そういう方向性のように素人ながら思えてしまいます。改宗ユダヤ人(ユダヤ教からキリスト教への改宗者)ですが、辛酸をなめたフッサールの、西洋形而上学の伝統への再構築のマニフェストなのでしょう。

で……。

一番最後に引用しているのあ、フッサールの著作の序文からですが、現代の哲学が、(日本における翻訳の問題以前のア・プリオリな問題として)分裂状態にあり、いわば、使い物にならない学問となってしまった事実に対する、フッサールなりの反旗の狼煙です。

哲学とか倫理学の講義をしていてもつくづく思うのですが、特に人文科学の場合、個人プレーという側面がつよく、まあ、それも考える「自己」が中心になって発想するわけでやもうえない部分もあるのですが、それだけでは、ほかのひとびとと「分かち合う」というところが出てこないんだよ! 考え抜いた人々の「協同作業」が必要不可欠なんだ! 従来の近代哲学の伝統には全くない……しかし、哲学が原初に誕生したときにはあった溌剌さを見る思いです。

それが、哲学とか思想の「責任」なのでしょう。

さて……。
起きると、オレンジケーキが届いておりました。
学生さんが送って下さったようなのですが、恐縮です。

細君と味わわせて戴きました。
ぼちぼち、「味が分かる」ようになってきましたので、

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 現代の哲学は分裂状態にあり、途方に暮れてせかせか動き回っているということについて、考えてみなければならない。前世紀の半ばから、それ以前の時代に比べると、哲学の衰退は紛れもない事実である。近代の初頭、宗教的な進行がますます活気のない慣習という皮相なものになってしまった時、知識人達は、自律的な哲学と科学に対する新たな大きな信頼によって、意気揚々としていた。人間の文化全体が科学的な洞察によって導かれ照らし出され、それによって新たな自律的な文化へと改革されるはずだった。
 しかしそのうちに、この新たな信頼もまたにせものとなり、衰えていった。それも理由のないことではなかった。今日私たちが持っているのは、統一をもった生き生きした哲学ではなく、際限なく広がり、ほとんど連関のなくなってしまった哲学文献の山である。私たちが目にしているのは、相反する理論が真剣に対決しながら、それでもこの対立においてそれらの内的な連関が示され、根本的確信のうちに共通性が示され、真の哲学への惑わされることのない信頼が現れる、という事態ではない。真剣にともに哲学し、互いのために哲学するのではなく、見せかけの報告と見せかけの批判の応酬でしかない。そこには、真剣な協働作業と客観的に通用する成果を目指すという精神をもった、責任感のある相互的な研究というものがまったく見られない。客観的に通用するとは、相互批判によって精錬され、どんな批判にも耐えられるような成果のことにほかならない。しかしながら、このように哲学者の数だけ多くの哲学があるなかで、本当の研究、本当の協働作業はどのようにして可能であろうか。なるほど、今でも多くの哲学の会議が開催されている。そこには哲学者達は集まるが、残念ながら哲学は集まらない。彼らには、それぞれが互いのためにあり、互いに働きかけあうことができるような、精神的な空間の統一が欠けている。個々の「学派」や「潮流」の内部では、事態はまだましなのかも知れないが、彼らの孤立したあり方や、哲学の全体的状況に関しては、本質的には、私がいま特徴づけたような状態にとどまっているのだ。
 このような現状のなかで私たちは、かつてデカルトが青年時代に出会ったのと同じような状況にいるのではないか。いまや、彼が哲学を始める者として持っていた根本から変革する姿勢を甦らせ、それゆえ、偉大な伝統と真剣な開始と流行の文学的活気(これは印象に訴えるとしても、それ以上に研究することは期待できないものだ)とが入り交じって氾濫している哲学の文献をすべて、デカルト的な転覆の中に投げ込み、新たな「第一哲学についての省察(メデイタチオーネス・デー・プリマ・フィロソフィア)」を始める時ではないか。結局のところ、現代の哲学の絶望的な状況は、あの省察から発した原動力が、そのもともと持っていた活気を失ってしまい、しかも、哲学的な自己責任という、根本から始める姿勢のもつ精神が失われたがために活気を失ってしまったことに、その原因を帰すべきではないか。窮極的で考えられる限りの無前提性を目指す哲学、あるいは、自ら生み出される窮極的な明証から本当の自律のうちで形成され、それに基づいて絶対的に自己責任をもつ哲学、という法外なものと考えられがちな要求はむしろ、真の哲学の根本的な意味に属しているのではないか。
    --E.フッサール(浜渦辰二訳)『デカルト的省察』岩波文庫、2001年。

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