« 「柚子だけは贅沢をさせてくれ」 | トップページ | 絶対的に自己責任をもつ哲学 »

人間にとっての唯一の問題は時間との闘争です

01_img_0112 02_img_0114

病み上がりで、朝風呂に入っていると、「ぴんぽ~ん」。
あいにく、細君は外出中、「ぴんぽんダッシュ」のほうが、有難かったのですが……。
宅急便の来訪のようで、急いで、下着だけは着て配送物をうけとると、注文していた、メモ帳カバーと、来年度の手帳が到着です。

ここ一〇年、フランクリン・コヴィー(Franklin Covey)のプランナーを使っておりましたが、綿密には記入できるもののいかんせんかさばるのと、「予定を消化する」というよりも、「予定を記入する」ことに励んでしまうという陥穽から、昨年よりスマートフォンでの管理にしておりました。

電話はいわゆるウィンドウズ・モバイルの搭載されたソフトバンクのX02HTというストレートタイプの携帯電話で、Outlookと同期できるのですが、同期させず、ただ確定した予定、アポイントメントのみ入力し、その他のToDoとか課題は、RODIAのメモ帳でこなし、おわると捨てる……そういう流れで管理しておりました。

世界を駆けめぐるビジネスマンでもないので、フランクリンを使う必要もないのですが(リファイルだけでウン千円)、記入できるところが多く、重宝しておりましたが、携帯電話での管理に切り替えてから、すぱっとさっぱりと予定をこなしていく……というのもなかなか新鮮で、自分としては携帯の日程管理+メモ帳もなかなかいいなあ~などと思っていたわけです。

で……。
今月から、同じスマートフォンですが、NokiaのX01NKに機種変更したのですが、この機械はウィンドウズではなく、独自のSymbian OS。使い勝手は、ウィンドウズ電話より使いやすく、ワードやエクセルの編集もできるので、なかなかいいなあ~と思ってはいたのですが、スケジューラーがやや使いにくい……。

ということで、来年度より、再度、アナログ手帳に復活ということで、手帳は、シンプルなものをチョイス。

フランクリン以前につかっていたやつですが、リファイル方式ではなく1年で完結する、MOLESKINE(モレスキン)のPOKET WEEKLY DIARYに戻してみました。

サイズは能率手帳のベーシックと同じやつですが、確定した予定のみボールペンで記入して、不安定な部分はシャープペンという、昔やっていたやりかたで来年度は管理してみようかと思います。

ただし、万能メモ帳のRODIAは、使い続けているのでこちらは、カバーだけを新調。イタリ・オイルレザーで渋めのレッド、RODIAのオレンジを挟み込んで、こちらは万年筆で殴り書き……というスタイルは継続です。

手帳ネタは、年末恒例のネタ?(この日記では初めてですが世間一般的にはという意味で)ですが、時間は誰人にとってもそして動物にも草木にも自然に等しく、そして永遠にすぎゆく概念なのですが、人間だけが、今日はこれやるぞ、こないだはここに失敗した・だから今度はこうするぞ、明日はこれだ!……などと過去・現在・未来という時間軸を意識して生活している生き物のようです。

そのひとつの象徴が手帳なのでしょう。

学生時代から、忙しいといえば忙しい生活を送っていたので、予定のない日、アポイントメントのない日、タスクのない日……というのにはどこか一抹の寂しさを感じていたことは事実としてありましたが、昨年より、スパッと予定は予定としてだけ管理するようになると、その予定をどう予定として活かしていくのか……予定表に書き込まれていない部分に集中するようになったような気がします(といっても、まだまだ不十分ですが)。

ですから、方式としては来年度よりアナログ管理にはなりますが、確定したものとして記入された予定を時間軸のなかで、どう自己自身の時間として「創造」していけばいいのか、一つの課題として、どこか念頭に置きながら挑戦したいものです。

通俗的ですが……
そのまま、ほっといても時間は等しく流れていきます。野獣に対しても、アリストテレス(Aristotle,384 BC-322,『政治学』参照)のいう神にたいしても、そして共同存在としての人間にたいしても等しく同じあり方でそれは永遠なのでしょう。
そして、そのまま予定を消化しているだけでも、「消化」しているだけで、
時間をどのように自分自身の時間へ転換していくのか。
まさに、人間の人間たる所以である、過去-現在-未来という時間軸のなかで、自分の時間を創造していくのか、考えないとまずいですね。

カント(Immanuel Kant, 1724-1804)のいうような自律-他律論でアナロジカルに云えば、時間概念への隷属状態としては、人間も動物も草木も等しく「他律」の状態なのでしょう。しかし、そこに自己自身で意味を与え、内在的な関与ができるようになったと時間からの「真の自由」になる(=自律)のかもしれません。

とわいえ、仕事にでかける時間は、「他律」的に設定されているわけですが、ヴェイユ(Simone Weil,1909-1943)のいうとおり、「時間を過ぎさるがままにするか(たとえば、糸巻きで遊ぶ子供)、あるいは、時間を<<埋めよう>>とつとめ、<<そうすることによって過ぎ去る時間に永遠的な価値をあたえようとする>>か」、ひとつひとつ確認しながら、「人間の無力さと人間のもつ力」を把握して進むしかないのかも知れません。

その意味では、「人間にとっての唯一の問題は時間との闘争」なのでしょう。

-----

<時間>
 <<はじめに>> 時間は、人間存在にとっての気がかりのなかでもっとも深刻でもっとも悲劇的なものです。あるいは唯一の悲劇的なものだと言えるかもしれません。私たちに想像できる悲劇はすべて、結局のところ<<時間の経過という唯一無二の悲劇>>に帰着することになります。時間はまた<<あらゆる隷属をうみだす源泉>>でもあります。
 パスカルが深く感じとったように、<<時間は存在が無であるという感情をうみだす源泉>>です。人間に考えることをこれほどまでに恐れさせているのは、時間が逃れさるものだという事実です。「気ばらし」は時間の流れを忘れさせることを目的としています。人は自分の背後に事物を残すことによってみずからを不滅にしようとこころみますが、不滅になるのは事物だけなのです。
 <<人間には不滅性へと向かうやみがたい傾向がある>>と言えるでしょう。
 時間を対象とすることがまったくできない(科学における法則)人間の思考と人間の生活とのあいだには、解決できぬ矛盾があります。<<美しいものはすべて永遠性という性格を持っています。>>人間存在の抱く純粋な感情としては、愛、友情、情愛(ロドリークのシメーヌにたいする、ポリュクトのポリーヌにたいする、ダンテのベアトリーチェにたいする感情)があります。こうした感情はみずからを永遠のものと見なすばかりではなく、その対象をも永遠のものと見なします。<<したがって、私たちのなかには時間の流れにたいして異議を唱えないものは何もなく、ともかくも私たちのなかのすべてが時間に服従しているのです。>>

<<第一部 時間への隷属>>
(1)<<現在>> 私たちの思考のなかから未来と過去に関係ある思考をすべて排除するとしたら、あとに何が残るでしょうか? 何も残らないでしょう。ですから私たちの所有している現在は、ただちに過ぎさり、過去の状態としてしか意識の到達することのない無にほかなりません。
 したがって、<<時間の法則に即していえば、私たちはどのような現実的な存在も持っていないのです>>。
 時間の持っている逃れさるという性格は、人生はひとつの夢にすぎぬとか、外なる世界は存在しないとかいう感情を生みだす原因となっているのです。
(2)<<過去>> 人は過去のことを、自分の背後のどこかに存在するものとしてしか考えません。「去年(こぞ)の雪、いまは何処(いずこ)?」<<過去はまったく存在しないものなのです。>>過去はとりかえしのつかぬものであり、その限りにおいて<<宿命的>>です。私たちが過去から引きだす観念は、宿命という観念です(メーヌ・ド・ビラン〔一七六六-一八二四。唯心論の立場にたつフランスの哲学者〕の「私は修正された」ということばを参照)。
(3)<<未来>> それは偶然として、したがってまた何か盲目的なものとしてあらわれます。
 こうして、<<私たちの無力さは完全なものとなります>>。私たちは現在にたいしては、それが存在しているがゆえに(現在である以上ひとつの事実です)何もなしえず、過去にたいしては、それがもはや存在していないがゆえに何もなしえず、未来にたいしては、それがまだ存在していないがゆえに何もなしえないのです。
 人は、非行によるめまい、飲酒による酩酊など(いやしい理由からであれりっぱな理由からであれ、自己放棄にちがいありません)の気ばらしを使って、この無力さの感情を逃れようとこころみるのです。

<<第二部 (反論)>>
(1)<<時間は現実的なもの、唯一の現実的な事物です。>>というのは、たとえ私たちが世界はひとつの夢にすぎぬと考えるとしても、その夢はつねに時間の流れに服従しているからです。したがって、<<時間はあらゆる真実を生みだす源泉でなければなりません>>。
 カントのことば。「時間は先験的(ア・プリオリ)なものであり、したがって普遍的なものである。」
 ここでは、ベルクソンのある種の逆説、時間と持続(形態と質料)とのあいだの対立という逆接を克服することが問題となります。時間は抽象的であり持続は具体的です。しかしベルクソンは形態と質料とを混同しています。時間はただひとつの真に普遍的な事物です。時間は<<先験的(ア・プリオリ)>>な認識を生みだす源泉にほかなりません。(以前にあったものは以後にありつづけることはできません。時間は不可逆的なものです。二つの時間のあいだには、無限の瞬間が介在しています。)私たちに連続という観念を最初にもたらしてくれるのは時間です。
(2)<<時間は永続性を含みます。>>
 過去と未来との関係は永遠につづく関係です。時間の経過自体、永遠につづきます。
(3)<<秩序という抽象的な形態に還元された時間は、あらゆる永遠の真実を生みだす源泉となります。>>
(4)時間という観念自体、未来についてのある種の把握を含んでいます。たとえば倫理において大きな重要性をもつ<<因果という観念>>などがそれです。

<<第三部 人間の無力さと人間のもつ力。体系的な行動は時間のなかに永遠性を持ちこむこと>>
 それが可能になるためにあ次の二つの態度が考えられます。
 つまり、時間を過ぎさるがままにするか(たとえば、糸巻きで遊ぶ子供)、あるいは、時間を<<埋めよう>>とつとめ、<<そうすることによって過ぎ去る時間に永遠的な価値をあたえようとする>>か、そのどちらかです。
 かりに死を永遠性への移行と考えるとすると、必然的に人生にも何か永遠的なものが存在したと考えなければならなくなります。マラルメのことば。「永遠が ついにその人本来に 彼の姿を変えるが如き。」
 したがって、人間にとっての唯一の問題は時間との闘争です。
    --シモーヌ・ヴェイユ(渡辺一民・川村孝則訳)『ヴェーユの哲学講義』ちくま学芸文庫、1996年。

-----

03_weil

|

« 「柚子だけは贅沢をさせてくれ」 | トップページ | 絶対的に自己責任をもつ哲学 »

告白・独白・毒吐の日々」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 人間にとっての唯一の問題は時間との闘争です:

« 「柚子だけは贅沢をさせてくれ」 | トップページ | 絶対的に自己責任をもつ哲学 »