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はたして単なるヒューマニズムが、こうした考えを徹底的に克服出来るかどうか。

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 社会とか人類とかいったって、つきつめて行けば具体的感覚的な人間の集まりなので、その具体的人間以上の超越的価値を認めない立場からは、エゴイズムを徹底的に否定する事は困難である。言語に絶する窮乏と迫害をくぐりながら、その苦しみが同時代の人によって全く評価されず、一生を革命の捨石として無名のうちに終わらなければならぬというような場合、一切の安易な道をふりきって、それに飛び込むような精神というものは、決して単なる科学精神や歴史的必然性の意識ではなく、もはや「絶対」に直面した精神であり、その意味で当人が意識すると否とを問わず、それ自体レリジャスな精神だと思います。よく昔、社会運動をやろうとする息子に対して親父が、「なにもお前がやらなくてもいいだろう」といったものですが、はたして単なるヒューマニズムが、こうした考えを徹底的に克服出来るかどうか。マテリアリズムが科学的な方法論を越えて、全人間的価値を包括する世界観たる事を要求するとき、やはりここに問題があると思うのです。
    --丸山眞男ほか、座談会「新学問論」、『潮流』吉田書房、昭和22年1月。

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昨日、論文指導を受けに行く電車のなかで、古い丸山眞男(1914-1996)の文章を読んでいたのですが、丸山眞男=戦後民主主義の高揚者、近代主義の亜流などと片づけることはできないなあ~とふと思い、急いで入力したのが上の文章です。

ちょうど敗戦後間もない昭和22年、「新学問論」と題された座談会において、大塚久雄(1907-1996)とか川島武宣(1909-1992)といった人びとと語り合うなかで出てきた丸山の言葉です。

顔ぶれとか論者の関心、そして開催時期が示すとおり、話題は西欧中心主義的、啓蒙的な色彩を帯びつつ進行します。特に、「近代科学、宗教、人類愛」という箇所では、マックス・ヴェーバー(大塚はヴェーバーが専門)的な問題意識で、プロテスタンティズムの「効用」を評価する発言が相次ぐのですが、それまで沈黙していた丸山は、その雰囲気をうち破るかのように、うえのような言葉を吐き出します。

この座談会では、丸山のうえの発言は、“重く受けとめられる”ことはなく、それ以上議論が発展することはありませんでしたが、丸山のこの問いかけを一笑に付すことはできないなあというのが実感です。

人は、理想に燃えて現実を改むべく、その「志」を掲げるとき、現実には丸山の指摘するような「言語に絶する窮乏と迫害をくぐりながら、その苦しみが同時代の人によって全く評価されず、一生を革命の捨石として無名のうちに終わらなければならぬというような場合」はほとんどありません。

しかしながら、どのような程度であったとしても、理想の成就は決してはなから保証されたものでもありません。そして、現実はどちらかといえば、かなず理想と乖離している以上、はじめにたてた「志」は、時の経過にともなって鈍磨していくのが世の常です。そのなかで、「何とかしないと……」という焦燥と、「自分がやっていることは無駄では……」という懐疑の狭間にうちおかれてしまうのがその殆どです。

その焦燥と絶望の悪循環が、ひとに何をもたらすのでしょうか。
そもそも焦燥と絶望は、現実に関わりがあるからこそ、これを変革せしめんとする「志」からの必然として生ずるものです。そのなかでその状態でに疲れ切った精神が、現実から身を引くというパターンも通例で、そこに至り現実を変革せしめんとする志は内崩してしまいます。要するに、「一切の安易な道をふりきって」「飛び込む」どころか、「なにもお前がやらなくてもいいだろう」というようなかたちで、“何も自分がやらなくてもいいだろう”という無気力、無関心にまで陥ってしまう。

ニヒリズムに傾いた魂を鼓舞するにはどのようなあり方がひとつの可能性としてあるのでしょうか。

確かに、目指すべき「理想」として、ふむべき「道」を示すことは大切です。しかし、それだけではひとは挫折してしまうと、立ち上がれない。必要とされるのは、その「道」を歩みうる力、すなわち、何事にも揺るがない「希望」がそれなのかもしれません。

「はたして単なるヒューマニズムが、こうした考えを徹底的に克服出来るかどうか」
おそらく、単なる概念とか理念としての「人類のために」とか「世界平和」のためにと声をかける「単なるヒューマニズム」では徹底的にそれを克服することはできないのかもしれません。

「単なる科学精神や歴史的必然性の意識」では絶望の覆いを取り除くことはできないのかもしれません。

その本源的な力、希望、そして、「生きる勇気」(ティリッヒ)のようなものを、丸山は、「『絶対』に直面した精神」とよび、「それ自体レリジャスな精神」と表現しているような気がします。

現状は唾棄されるべき構造で、例えば、科学的に精緻な歴史的必然性の法則から、それを革命していかない……と熱く頑張った革命家たちの「熱を冷ます」だけの力を現実の焦燥と絶望は確かに持っております。そうした屍を乗り換えた力が自分にあるのかどうか……別に革命をするつもりではありませんが、せいかつのなかで、「諦めずに、それでもなお……」とすすんでいける何かがあるのかどうか、丸山眞男に問われているような気がします。

「具体的感覚的」なちからは容赦がありません。
しかし、それをなんとかするのも「具体的感覚的」なちからなのでしょう。

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