涙の谷への批判
実は……12月中旬まで、いわゆる「休み」というやつがなく、例の如く考察不足なのですが、ちょい読んでいて、気にかかるところもあったりしたものですがから、読んでいたところと、その簡単なメモというあたりで許して頂ければ幸いです。
【1】は有名なマルクス(Karl Heinrich Marx,1818-1883)の宗教批判の部分です。
【2】はカトリック世界を代表する神学者カール・ラーナー(Karl Rahner,1904-1984)の宗教批判……というよりも、おのれ自身に対する反省と展望の部分です。
前者はマルクス主義のいわば創始者であり、その宗教批判=宗教=阿片はつとに有名です。後者は、20世紀のカトリック神学を代表するイエズス会士にて、第2バチカン公会議において主導的な役割を果たした人物として広く知られております。
すべての事象を「もの」に還元して考えてみるものの味方と、信仰の眼であったとしても、つねに人間という視点を保持しながら解釈したものの味方の対比といってよいでしょうが、おなじ対象に対しても異なるアプローチが存在することが理解できるかと思います。
【1】
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誤謬の天国的な祭壇とかまどのための祈り〔oratio pro aris et focis〕が論破されたからには、その巻添えをくって誤謬の現世的な存在も危うくされている。天国という空想的現実のなかに超人を探し求めて、ただ自分自身の反映だけしか見いださなかった人間は、自分の真の現実性を探求する場合、また探究せざるをえない場合に、ただ自分自身の仮象だけを、ただ非人間だけを見いだそうなどという気にはもはやなれないであろう。
反宗教的批判の基礎は、人間が宗教をつくるのであり、宗教が人間をつくるのではない、ということになる。しかも宗教は、自分自身をまだ自分のものとしていない人間か、または一度は自分のものとしてもまた喪失してしまった人間か、いずれかの人間の自己意識であり自己感情なのである。しかし人間というものは、この世界の外部にうずくまっている抽象的な存在ではない。人間とはすなわち人間の世界であり、国家であり、社会的結合である。この国家、この社会的結合が倒錯した世界であるがゆえに、倒錯した世界意識である宗教を生みだすのである。宗教は、この世界の一般的理論であり、それの百科全書的要綱であり、それの通俗的なかたちをとった論理学であり、それの唯心的な、対面にかかわる問題〔point-d'honneur〕であり、それの熱狂であり、それの道徳的承認であり、それの儀式ばった補完であり、それの慰めと正当化との一般的根拠である。宗教は、人間的本質が真の現実性をもたないがために、人間的本質を空想的に実現したものである。それゆえ、宗教に対する闘争は、間接的には、宗教という精神的芳香をただよわせているこの世界に対する闘争なのである。
宗教上の悲惨は、現実的な悲惨の表現でもあるし、現実的な悲惨に対する抗議でもある。宗教は、抑圧された生きものの嘆息であり、非常な世界の心情であるとともに、精神を失った状態の精神である。それは民衆の阿片である。
民衆の幻想的な幸福である宗教を揚棄することは、民衆の現実的な幸福を要求することである。民衆が自分の状態についてもつ幻想を棄てるよう要求することは、それらの幻想を必要とするような状態を棄てるよう要求することである。したがって、宗教への批判は、宗教を後光とするこの涙の谷〔現世〕への批判の萌しをはらんでいる。
批判は鎖にまつわりついていた想像上の花々をむしりとってしまったが、それは人間が夢も慰めもない鎖を身にになうためではなく、むしろ鎖を振り捨てて生きた花を摘むためであった。宗教への批判は人間の迷夢を破るが、それは人間が迷夢から醒めた分別をもった人間らしく思考し行動し、自分の現実を形成するためであり、人間が自分自身を中心として、したがってまた自分の現実の太陽を中心として動くためである。宗教は、人間が自分自身を中心として動くことをしないあいだ、人間のまわりを動くところの幻想的太陽にすぎない。
--カール・マルクス(城塚登訳)「ヘーゲル法哲学批判序説」、『ユダヤ人問題によせて ヘーゲル法哲学批判序説』岩波文庫、1974年。
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【2】
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十六世紀以降のヨーロッパ植民地主義の動きの中で教会は、事実上世界宣教の使命を引き受けた。しかしながら教会は私たちの時代に至るまで、無邪気にも、またやむをえずキリスト教を世界にもたらそうとしたけれども、多少とも(理論的にではなくとも実践的に)ヨーロッパの輸出品目として伝達して来たキリスト教だったのである。それでもヨーロッパ以外の他の国々の兄弟たちは、不本意ながら、家庭における未成年者のように子供扱いされてきた。私は彼らにラテン語で神学を教え、ラテン的典礼を授け、日本では彼らのためにネオ・ゴティックの教会を建て、彼らにヨーロッパの聖歌を唱わせ、彼らのためにヨーロッパ人の司教を与え、あるいはヨーロッパの尺度に従ってその地の司教をローマで選出した。
以上のことは皆良いことだと思われ、また長いこと避けがたかったかもしれない。たとえ私たちヨーロッパ人が罪深いキリスト者でありながらも、同時にこれらのことをヨーロッパ風の尊大さと思いあがりの一端であることを認めなければならないとしてもである。ところで今日、あらゆる同胞に対して、ひとつの人類という同権と成熟さを認めようとする時代にあっては、教会はもはや全世界に輸出する西欧的キリスト教的な輸出物を伴ったヨーロッパの教会のままにとどまっていてはならない。教会は現に実際、世界教会となるべきである。そしてこの使命の実現は、今日私たちの状況を通じて与えられている、ある新たなキリスト教的兄弟愛の形態であり、この兄弟愛は、相共にただひとつの教会を構成している諸教会の人々の間で有力にならなければならない。それだからといって教会の一体性、世界中どこでもユダヤ--西欧的起源に由来しているという事実、ローマにその中心があることは否定されたり、不分明になったりする必要はないのである。ところでキリスト教が要求するような兄弟愛は、今日でもやはり、世界教会そのものを現実に実現するという使命をになっている。
たしかに、第二バチカン公会議に、また前にこれまでその方向に向かっていた全てのことにおいて、この使命と実現とが始まった。はじめて公会議において世界中の司教が召集され、地球上のほとんどあらゆる民族と文化の代表者たちが、教会の幾多の決断に積極的に加わった。神学はもはや単に十九世紀前半のネオ・スコラスティックの神学にはとどまってはいなかった。全世界に対する教会の特有の言語としてのラテン語の廃止(撤廃ではない)によって、典礼における多様性への道が原則的に開かれた。それにもし世界教会というものが、真に同権を認められた兄弟たちと、同権になった個々の教会から成り立つようにしようとすれば、この道は開かれざるをえないのである。しかしながら、一なる教会におけるすべての人の兄弟の同権をめざすとすれば、そしてまた西欧の優位性の解消をめざすとすれば、なすべきことがまだたくさんある。
--カール・ラーナー(宮沢みどり訳)『あなたの兄弟とは誰か』(サンパウロ、昭和60年)。
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マルクスの宗教批判も理解できないことはありません。
宗教そのものが生きている人間そのものを疎外する要因と見て取ったその発想には理解、いや共感すらおぼえるものですが、現実にはそれだけでもないだろう……という違和感がどこかにのこってしまいます。
しかしながら、通俗的な俯瞰図で恐縮ですが、人間をとりまく人間と世界とは、決して単なる「リアル」な「もの」だけの世界でもありません。
宗教批判が有効に機能するためには何が必要なのでしょうか。
宗教を「リアル」な「もの」として批判するあり方にも耳を傾けながら、それでもなおかつ、自分自身が、その問題を「自分自身」の問題として対象化しないかぎり有効には機能しないのではないでしょうか……そのことを倫理学と神学が交差する狭間で生きておりますと至極実感致します。
信仰そのものには、信仰者にとって、絶対に「絶対」という契機が必要です。しかしながら、その「絶対」をどこかでチェックするもうひとりの「自分自身」の存在も必要なのでしょう。
宗教批判はいわば玉石混合の世界ですが、そうした批判に耳を貸さないとしても、自己自身が自己自身をチェックする、そうした自己批判……こういう表現が、またマルクス主義的な「自己批判」とか「査問」とか「粛正」という言葉を連想しそうでいやなのですが……自分自身がどこかで“熱い”自分自身を確認する“醒めた”自分自身も同時に必要なのではないだろうか……などと思うわけでございます。
そのことによって、絶対と絶対の殴り合いから、絶対と絶対の握手に向かう一歩が踏み出せるような気がしてほかなりません。
とりあえず、今日は、季節限定……この言葉に弱いのですが……麒麟の「Premium無濾過・Beer Chocolat」で「ゴマだれ団子」で癒しのひとときです。
味わいは、「濃い~」という感じですが、黒ビールともまた違います。「Beer Chocolat」とある通り、後味が「チョコレート」っぽいです。それもそのはずなんでしょう……「チョコレート麦芽一部使用」(そんなのがあるんだ!)との通りでございます。
おもったより、団子と合いますね。
| ユダヤ人問題によせて ヘーゲル法哲学批判序説 (岩波文庫) 著者:城塚 登,カール・マルクス |
| あなたの兄弟とは誰か 著者:宮沢みどり,カール・ラーナー |
| カール・ラーナー研究―根底化と希望の思想形成 著者:高柳 俊一 |
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