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どうでもいいけど、たぶん、どうでもよくない

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……個人はすべて、少しだけなら自分の環境を変えることができる--この点は、誰もが認めると思う。みなさんにも、そのような経験が少なくとも数回はあるはずだ。そこからもう一歩進んで認識すべきなのは、とても小さな努力の積み重ねが突如として大きな結果を生むことがあり、それがさらに重なれば重大な変化をもたらしうるということだ。言いかえれば、日本を変えるための小さな貢献が的を射たものであれば、しかも他の人びとの小さな貢献とうまく結びつけば、かなり有意義な結果が得られるかもしれないのだ。
 だが、そのためには、まず基本的かつ重大な一歩を踏みださなくてはならない。その最初の一歩については、すでに第一部で述べた。つまり、日本で最も頻繁に使われる「しかたがない」という政治的な言葉を、あなたの辞書から追放することである。これからは、決して「しかたがない」と思ってはいけないのだ。
 どうしようもないことが世にあるのは、私も充分にわかっている。まったく手のほどこしようのないこともあるものだ。だが、「しかたがない」という破滅につながる言葉を使っていると、何をしても無駄だと安易に結論づけるようになる。だからこそ、使わないようにすべきなのだ。「しかたがない」と思っていると、何か新しいことをやってみようという気が失せてしまう。
 「しかたがない」と思ったりすることは、市民としての立場を弱めることになる。市民とは何かについては第一部で述べたが、もう一度要約しておこう。まず、あなたは人間である。人間であるのは、意識した結果ではなく、人間に生まれたからだ。また、あなたは国民であり、その証拠に役人から国名を記したパスポートの発行を受けられる。これは市民であることと同じだと思う人が多いが、そうではない。市民になるためには、市民であるとはどういうことかを理解したうえで、市民として行動しなくてはならない。そうしないかぎり市民とは言えないと認識することが重要だ。
    --カレル・ヴァン・ウォルフレン(鈴木主税訳)『人間を幸福にしない日本というシステム』新潮社、2000年。

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『日本/権力構造の謎』(1898年)をもって日本という地域社会のもつ病的な権力構造を暴いたのが、オランダ人ジャーナリスト(現在、アムステルダム大学教授)のカレル・ヴァン・ウォルフレン(Karel van Wolferen,1941-)です。かれの議論に恣意的なところや牽強付会な部分がないわけではないし、18世紀的な啓蒙主義の聡明な光に眩暈を感じなくもないのですが、煩瑣な議論は退けるとしても、全体としてはその批判は正鵠を得ているのだろうと思います。

ウォルフレンの象徴的に指摘する言葉「しかたがない」というあり方は、数百年を経て形成された、ものごとに対する、いわばあまりこのましくない精神的態度なのでしょう。

「しかたがない」と言うとき、それはどのように流通しているのでしょうか。

ひとつは、いま自分が問題にしている点を改めようとする試みが、やるまえから「すべては失敗におわる」と言っているに等しい言い方というところです。

そしてふたつめにして痛恨なことは、それが自分自身にむけられるだけでなく、変革をもたらそうとする試みは一切成功しないと考えるように、やんわりと落ちついて「他の人々」にも薦めているということだと思います。

まわりの状況は正しくない。
しかし、そうは思いながらも、現状を「受け入れざるを得ない」と無理に納得させているのがこの「しかたがない」という言葉です。

いちいち騒ぎ立てないのが大人の態度であり、成熟した人間の自尊心という気風もありますが、それはそれで大切なのですが、いちいち指摘をしないといけない局面も同時に存在します。そこで「騒ぐ」のではなく、「異議申し立て」をできるようになれるかどうか--。ウォルフレンの指摘は、90年代中葉の議論かも知れませんが、そのあたりを試されているのでは--などと思う昨今です。

「権威への盲従」「現状容認」そして「独立心の欠如」を象徴するのがまさに「しかたがない」という精神的な態度なのだと思います。

経済的な問題が大津波となって社会を席巻する一方で、ますます、そうした経済的問題、社会的問題、そしてそれを統括する(現状では統括できておりませんが)政治の問題にますます、ひとびとが無関心になる状況で、そうしたひとびとは、「権威・権力にも関係ないや」とか「現状に三行半をつけたから、勝手にやっていくさ」、そして「無関心であることこそが独立心の象徴なのだ」という誤解が流通しているように思われて他なりませんが、気が付いたときには手遅れになっていないでほしいものです。

とくに、職場なんかでも、バイトくんをつかいますが、「とりあえず、食べていければいいや」って感じで、社会的(公共的)なるものへ目をふさぎ、趣味的な自分の世界だけは大切するというかたちで、40過ぎても「非正規雇用」になんの痛痒も感じないひとびとがときおりいます。

いまはそれでいいのでしょうが……、大丈夫だろうか……などと思うことが時々あります。もちろん、「正規雇用」がいいのかどうか、「非正規雇用」の問題をどう考えていくのか、様々な議論があり、様々なアプローチがあることは理解しております。そして政治の側の言語も存在し、それを指摘する市民の論理も存在することは理解しております。ただしかし、そうした言語が生成される問題の現場で一緒にやっていると、ときどき、そういうことを「ふと、思う」ことがあります。

そしてこの問題は、「政治的な領域」にだけ限定された問題ではありません。
日常生活のなかで、意識しているにせよ、していないにせよ、様々な局面でそれとなく出てくる「しかたがない」というものの言い方のひとつひとつを丁寧に点検する必要があります。

「そのコーヒー、もう冷めているわ」
「しかたがない」

これぐらいは許されるのでしょうかね?

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