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問うことはいずれも一つの探究である

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 問うことはいずれも一つの探究である。あらゆる探究は、探究されているもののほうから先行的にその方向を定められている。問うことは、存在者が存在している事実と存在している状態において、その存在者を認識しつつ探究することである。認識しつつ探究することとは「根本的に探究すること」になりうるが、この根本的探究とは、その問いが向けられている当のものから邪魔物を取り払いつつ、その当ののものを規定することにほかならない。問うことは何かを問いたずねることであるのだから、その問いにおいて問われているものをもっているわけである。何かを問いたずねることはすべて、なんらかの仕方で、何かを手掛かりに問い合わせることである。問うことには、問われているもののほか、問いかけられているものが属している。根本的に探究する問い、言いかえれば、とくに理論的な問いにおいては、問われているものは規定されて概念へともたらされるべきである。そうだとすれば、問われているもののうちには本来的に志向されるものとして問いたしかめられるものがひそんでいて、このものに達したときに、問うことはその目的を果たすわけである。問うこと自身は、或る存在者が、つまり問う者がとる態度として、存在の或る固有の性格をもっている。問うということは、「ただ漫然と問うだけ」というふうに遂行されることもあれば、明示的な問題設定として遂行されることもある。この明示的な問題設定に特有なことは、問うことが問い自身の前述の構成的な諸性格すべてにわたってあらかじめ見通しがきくものになっている、この点にある。
    --ハイデガー(原祐・渡邊二郎訳)『存在と時間』中央公論新社、2003年。

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採点も済み、ようやく本年度の通信教育部のスクーリング全て終了です。
2007年の5月末からスタートし、今回で12回目のスクーリングで、ようやく1年生から進級できたという心境です。

倫理学を学ぶなかで、つくづく実感するのが、どの倫理学書にも「答え」は書きこまれていないということです。通俗的な見取り図になりますが、隣接する「道徳(学)」と対比した場合、道徳(学)の教材には、「~するなかれ」「~すべし」というかたちで、いわば「答え」が示されておりますが、倫理学の教材では、「どうして~するなかれなのか」を探究する、「どうして~すべしなのか」を探究するための、いわば「問い」の「材料」しか記されておりません。

模範解答一覧のようなものがあったとしても、それを自分で導き出すことが大切なのでしょう。その営みを通して、ひとは自己自身の中に倫理(学)を構築するのができるのでは?などと思ってしまいます。

ちょうど、最終コマの試験のちょい前。

「となりの教室では、電卓とかガチガチにつかってすぱんと答え導いていく試験のようですが、僕らの学んだ倫理学って、試験を較べてみただけでもまるっきり正反対の性質ですよね。徒手空拳とまではいいませんが、比較でいえば、電卓から創って、公式を内面に当てはめ(=自律)、自分の言葉で答案をつくっていかないといけないじゃないですか。面白いといえば面白いのですが、考えに言葉を与えるっていうのは結構面倒ですね……。でもそれが醍醐味なんですよね」

学生さん、面白い喩えをするなあと思いました。

答えは提示しないけれども(むしろできないけれども)、そっと背中を押す……それが倫理学の教員の役割かも知れません。

そして学問とは、「問い」を明確にして探究を精確に実現させる一つの在り方なのかなというところも最近つくづく実感します。うえには、ハイデガーの『存在と時間』の冒頭より引用しましたが、ハイデガーは「存在とは何か」を探究する中で、世間一般で広く流通している誤謬をしてきしたあと、この問いがこれまで「問い方」をきちんと煮詰めてこなかったがゆえに、探究が失敗したと指摘し、「問い」のスタイルを徹底的に問い直します。

哲学と倫理学では、存在論と他者論のちがいといったような形で「性質」の違いは厳然と存在しましたが、「問い」のスタイルを徹底的に問い直す、いわば観点の提示は冒頭に行いますので、現実の教室の中で、ひとりひとりがその「問い」を精確に「探究」していってもらえればと思います。

学問の問いとは懐疑のための懐疑ではありません。
むしろ、懐疑をはらすための懐疑なのでしょう。

そういう示唆を少しでも与えることができたのであれば成功かもしれません。
しかし、いつも言うとおり、ナイーブでシャイなチキン野郎でございますから、ああすればよかった・こうすればよかったと反省ばかりが先だちます。倫理学なんて、本当は円熟した完成した大家がやるべきなのでしょうが、若造の私には荷が大きい部分が現実にはあります。しかし、その忸怩たる感情があるから、何かできあがったものを知識として教えるのではなく、共に問いに立ち、考えることができ、学生さんたちとの交流から、実は自分自身の「倫理学」が深まっていくところも実感しておりますので、その意味では実にありがたいものです。

さて……
試験終了後、岡山の指導員の方としばしば懇談。
はじめてお会いしましたが、この方も有名な方のようで、古本屋を回っては、例えば、ホイットマンの『草の葉』の初版本(邦訳ではありませんよ)とか、ユゴーの書簡なんかを発掘されては、本学の発展のために寄贈してくださっている方です。その努力に、頭が下がりました。

「先生、倫理だか、論理だかですよね。こんなものですけど、帰りの電車の中ででも、読んでみてくださいな」

3冊も古本を送呈してくださいました。

ありがたいことです。ちょうど、戦前の修身の教科書は研究の一環ですこし必要だったのでびっくりしました。

ありがとうございました。その志に応えられるような一歩一歩でありつづけようと思います。

貴重な古本を最後に「頂いた」ものですから、翌日の短大の授業でも、私自身なにかを学生さんたちに「頂いてもらわないと」と思い、今回はぷっちょではなく、銘菓にしてみました。思ったより安く、思った以上にかさばらなかったのですが、思った以上に好評でした。

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存在と時間〈1〉 (中公クラシックス) Book 存在と時間〈1〉 (中公クラシックス)

著者:ハイデガー
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