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異邦人についての「それは私の責任である」というこのあり方

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 他の人間に対する有責性というかたちでの、他の人間の近接性はそれゆえ、「現前化」が、知として、そこから引き出しうるものとは別の仕方で意味することになる。ひとりひとりが自分に対して意味する内的な再-現前化とは別の仕方で意味することになる。人間性の究極にして固有の意味は、顕現されるものとしてであれ、顕現する作用としてであれ、覆いを剥がされた真理としてであれ、知のイエシスとしてであれ、他者に対してあるいはおのれに対しておのれをさらけ出すことであると、いうのは確かなことなのだろうか。人間がそれであることができるものを超え、人間がおのれをそれとして示すことができるものを超えては人間は意味を持つことはできないというのは確かなことなのだろうか。そのような意味は、最初に到来するものの顔のうちに、その他者としての未知性のうちに住まっているのではあるまいか。その他者が私の助力を呼び求め、私に有責性を課すのは、まさにそのことが他者の異邦人性(étrangeré)と深く結びついているからではあるまいか。異邦人が私に課すこの有責性、異邦人についての「それは私の責任である」というこのあり方は、私が「舞台に登場する」ときの、神が私の観念に到来するときの仕方ではないのだろうか。神はその要請によって私を審問しつつ異邦人を愛され、その要請に対して私が「私はここにおります」(me voici)と返答することによって私は神の証人となるのではないだろうか。
    --エマニュエル・レヴィナス(内田樹訳)「意味についての覚え書き」、『観念に到来する神について』国文社、1997年。

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さすがに四日も仕事を休んで、いきなり市井の職場へ放り出されて、四時間も連続して食品レジをうち続けると、まあ、それは堪える一日になるわけですが、お客様をお待たせするわけにもいきませんし、マネジャーとしての賃金に見合った働きという意味でも「それは私の責任である」という仕方で「応え」ませんと問題がある訳なので、本来(しかし現実世界に対する、そもそも「本来」ってナンダ?)のマネジメント業務を横に置いて、今日はがっつり、副業務の一日です。

しかし、それはそれで、なんといいますか、ある意味で、現実世界への復帰の強烈なリハビリとなり、まあ、それはそれでよしとしながら、晩酌に酔う宇治家参去です。

で……。
今日、レジを打っていると、私は知らないのですが、どうも私をしっているお客様のようにて、「私の古傷」を心配してご指摘下さるお婆様がひとり。

「私の古傷」とは何ぞや……というところですが、宇治家参去、実は自転車転倒にて、過去3回ほど、腕の骨を折る・ヒビが入るという過酷な経験をしているのですが、その3回目をやったのが、ちょうど一年半前のことです。

ちょうど、市井の職場の送別会か何かで、しこたま酒を呑み、ほろ酔い?気分で、自転車で爆走して帰宅した結果、自宅の直前にて転倒。

「いてぇ~なあ」

……と思うよりも、

「着ていたコート大丈夫かな?」

……と思う程度で、そのまま布団へ合体したわけですが、起きてみると、激しい痛みが左肘をかけめぐり、どうしようもないので病院へ行くと「折れています」とのことにて……固定し、鎮痛剤をいただいて、仕事をしたものです。

しかしながら、今と同じ勤務先ですから……、

「レジ応援お願いします~」

……ってなりますと、石膏と添え木で固定し、三角巾で腕をつったまま、レジにも入らないといけないので、よく入っていたのですが……、

今日のお婆様、その時に私がおそらくレジを打った方なのでしょう……、その古傷を覚えていたようにて、

「こないだは腕が大変だったみたいけど、今度は風邪?お大事に」

やさしく声をかけて下さいました。

今日はマスクをしておりましたので、「風邪?お大事に」というわけですが、そんな古い話まで覚えていたとは驚きです。

しかもこちらとしては、まったく顔に覚えのないお客様ですので、まさしく一眼の亀のような貴重な再会です。

食品レジを打っていると、結構、常連さんなんかは顔を覚えるわけですし、いくら並んでいても、自分のレジに並ぶお客様という奇特な方もいるのですが、この方に関しては全く覚えがなく……といっても、無下に、

「えー、お宅どちら様でしたっけ?」

……などとふることもできませんので、

「いつもありがとうございます。お陰で手は良くなったのですが、この寒さですから、ちょいと風邪を引きまして……、あ、あ、大丈夫ですよ。もう治りかけてますから。お母様も、体調には十分注意してくださいね」

……と軽薄な部分もあるのですが、われながら、ぺらぺら言葉がでることに驚きです。

すると、

「わたしも、今日、手の爪を痛めちゃったんだけど、怪我とか風邪には注意しないとね」
……と会計になり、

「ありがとうございました。またお越し下さいませ」

で、クローズ。後ろにならんでいた、これまたオバチャンが、「早くせんかい、ボケ」って<眼差し>で見なさいで下さいまし。

「大変、お待たせ致しました……」

と波がおわるまで、うち続けた次第です。

さて……。
おそくら、自分が彼女に対しては、覚えもないように、まったくの<異邦人>(étrangeré)なのですが、彼女は自分に対して、何らかのイメージとか表象をもっていて「係わって」来てくださったのでしょう。それがもちろん逆の場合もあります。

しかし、そこで、そうした<異邦人>とどう向かい合っていくのか。

無下に、関係性を切断する(=有責性を放棄する)ことも簡単です。
しかし、その関係性に係わっていく(=有責性を真っ当する)ことも実は案外、簡単なことなんです。

そういう問題に対して、どう舵を切っていくのか……。
レジを打ちながら考えたある日の宇治家参去です。

しっかし、よく覚えているよなあ~というのも実感ですが、実は腕骨折3回はすべて1年の間での出来事にて(うち2回は酒気帯び)、それ以来、事故を起こしていない、自分自身も、「まあ、捨てたもんではないわな」……ということで、飲んで寝ます。なぜなら、今日はこれ以上骨折する心配が全くありませんので。

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