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「互いに共に在ること」を問い続ける

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 「私たちは反省を介して目覚める。すなわち、私たち自身へと帰還することを強制されて覚醒するのである。だが、抵抗を欠いてはいかなる帰還もなく、客体なくして反省は考えられない*」。人間がじぶん自身にたちもどるのは、とはいえたいていは「客体」からではなく、主体から、つまりみずからひとしい者たちからだ。人間がとりわけて立ちむかう「世界」は、人間に応接する共同世界であるからである。およそ特定の他者たちが現に存在していなかったなら、みずからの(アイゲン)の現存在は現に(da)存在せず、いまあるそのように(so)は存在しなかったであろう。みずからの現存在がそのように現に(ゾー・ダー)存在することで、現存在はつねに一方の性の現存在(ダーザイン)なのであって、同時に他の性の現存在ではない。他者たちの現存(ダーザイン)によって固有の(アイゲン)の現存在は、ただ右の事情によってだけでも、すでに根底から規定されている。他者たちの干渉がなくても完全に規定されているのである。したがって、私たちが他者について、あるいは共同世界をめぐって問題にする場合、その問いは、他者たちがそれに対して「他者」であり、また「世界」となる一者をめぐる問いをふくんでいる。すなわち、一者(アイン)と他者(アンダー)とが互いに共に在ること(ミット・アイン・アンダー・ザイン)が問われているのである。
*シェリング『著作集』(Sämtliche Werke,1856-61)第一巻、三二五頁参照。
    --レーヴィット(熊野純彦訳)『共同存在の現象学』岩波文庫、2008年。

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泥のように飲む(酔う)と書いて「泥酔」というわけですが、ひさしぶりに泥酔です。
大学時代の先輩、後輩、同期と飲み出すと、「ついつい」量をいってしまい、あとで、激しく落ち込む宇治家参去です。

そして……日曜は深酒してはいけないという掟をやぶってしまいました。
何しろ月曜は、大学での講義が済むとそのまま市井の職場なので、今日はこれからきつそうです。

とわいえ、御同道戴きました皆様方ありがとうございました。
いつも思いますが、利害を離れた「学友」の関係というものは本当によいものです。その関係のあり方に共同体のここちよいあり方のひとつの見本をみる思いがします。原初においては全く関係も係わりもなかったひとびとが、集められても「友人関係」は成立しません。しかし、たとえ、全く関係も係わりもなかったひとびとであるにもかかわらず、「友人関係」が成立するというのは不思議なものです。

「人間がとりわけて立ちむかう「世界」は、人間に応接する共同世界であるからである。およそ特定の他者たちが現に存在していなかったなら、みずからの(アイゲン)の現存在は現に(da)存在せず、いまあるそのように(so)は存在しなかった」のでしょう。

自分一人で全人類にかかわっていくなどとううのは不可能なのですが、特定の他者たちの存在によって、自己自身の存在を確立させていくなかで、「互いに共に在ること」を問い続ける中で、自己の問題、そして他者の問題を考えていくしかないのかも知れません。

アトム化された個人の立場も存在しなければ、マスとして扱われる共同体の立場も実は議論の世界のなかだけの話で、現実にはないのでしょう。

自然に、ひとびととの関係性のなかでしか、実は自己自身の存在も形成されないのかもしれません。そこを自然にやっていく……難しいですが、自然にやっていくしかありません。

で……。
自然といえば、ヘロヘロで最終講義を終えると、大学の木々がもう芽吹きはじめておりました。自然とはいいものです。

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