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離れて戦おうとするのは人間の本質だ

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 離れて戦おうとするのは人間の本質だ。最初の日から人はそのために努力し、その後もずっと努力しつづける。    アルダン・デュピク「戦闘の研究」

最大距離--「人を殺しているのではないと思う込むことができる」
 距離という尺度と殺人プロセスとの関係を検証するにあたって、まず最初は最大距離から見ていこう。ここでいう<最大距離>とは、双眼鏡、レーダー、潜望鏡、リモートカメラなどの機械的手段を使わなければ、個々の犠牲者を認識できない距離のことである。
 グレイはこの問題をはっきり認識していた。「多くのパイロットや砲手は、怯えた非戦闘員を無数に殺してきたにもかかわらず、後悔や反省が必要とはまったく感じていなかった」。ダイアも同様のことを述べて、グレイの観察を裏づけている。砲手、爆撃機の乗員、あるいは海軍兵士は、人を殺すのになんの困難も感じていないというのである。

 ひとつには機関銃手に発砲を続けさせるのと同じ圧力がある、つまり仲間から見られているからだが、なにより重要なのは、敵との間に距離と機会が介在しているということだ。自分は人間を殺しているのではないと思いこむことができるのである。
 全般的に見ると、距離だけでなおじゅうぶんな緩衝作動をもたらす。射手は、目に見えない格子(グリッド)に向けて発砲する。潜水艦の乗員は、<艦船>に向かって魚雷を発射する(船に乗っている人間を撃つのではない)。パイロットはミサイルを<標的>に向かって発射する。

 ここでダイアは最大距離型殺人の大半を網羅している。砲手、爆撃機の乗員、海軍の射手、ミサイル発射員(海上および地上の)はみな、集団免責、機械の介在、そして現在の論に最も関係する物理的距離という、強力な組み合わせによって守られているのだ。
 戦闘での殺人というテーマについて、何年も研究や文献調査を行ってきたが、このような環境で敵を殺すことを拒絶した者は一例も発見できなかったし、またこのタイプの殺人にともなう精神病的トラウマの例も見いだせなかった。広島や長崎に原子爆弾を投下した兵士のケースでさえ、有名な神話に反して、精神疾患の発生例はまったくない。歴史的文献からわかるのはこういうことだ。エノラ・ゲイのために気象偵察を行った航空機のパイロットは、爆弾投下以前から何度も規律違反や犯罪を犯していた。彼は軍を離れてからもくりかえし問題を起こしつづけ、原爆投下に係わった兵士たちに自殺者や精神異常者が続出したという有名な神話は、このただひとりのパイロットの行動がもとになって生まれたにすぎないのである。

長距離--「目と目が会うこともなく、戦闘の汗と緊張感もない」
 ここでいう<長距離>とは、敵を目視することはできても、狙撃銃、対戦車ミサイル、戦車の火砲などの特殊な武器を使わなければ殺せないという距離である。
 ホームズがとりあげている第一次大戦のオーストラリアの狙撃兵は、ドイツの観測兵を撃ったあとで、「全身がみょうにぞくぞくした。子供のころ、初めてカンガルーを撃ったときとは違う感覚だった。一瞬吐き気がして気が遠くなったが、そんな感じはすぐに消えた」と語っている。
 ここでは殺人行為に対する一種の不安がまず見てとれるが、狙撃兵は原則としてチームで行動する。最大距離の殺人と同じく、集団免責、機械の介在(ライフルのスコープ)、物理的距離という強力な組み合わせに守られているのである。
    --デーヴ・グロスマン(安原和見訳)『戦争における「人殺し」の心理学』ちくま学芸文庫、2004年。

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イスラエルとハマスの軍事衝突の停戦交渉が成功することを祈りつつ、すこし、戦争に係わる文献を読み直す宇治家参去です。

うえに引用したのは、グロスマン(Dave Christensen Grossman)の文献ですが、人間に限らず、そもそも動物は、同族への殺人に対して強烈な抵抗感をそもそももっているのですが、その抵抗感をどのように「乗り越えていくのか」そのメカニズムを解明した戦慄の一冊です。

著者自身が、心理学者にして歴史学者、そのうえたたき上げの軍人で、一兵卒を振り出しに下士官、将校と昇進し、中佐として軍事学の教授を務めております。おまけにエアボーンの資格(第82空挺師団)ももっており、まさに精鋭の実戦部隊に属した生え抜きの人物です。

ですから、その議論には、アカデミズムのどこか中に浮いたようなカビ臭さもなければ、軍人の冷徹なごりごりのリアリズムも存在しませんが、講壇の議論もなければ英雄も存在しない戦場のリアリティが、学とリアリズムの幸福な交差によって描写されております。

兵士も人間であれば、実は、同族を殺すことに極めて強烈な抵抗感をもっております。それを「兵士」おして、人間を殺す場としての戦場に送り出すということはどういうことなのか、そしてどうやっていけば殺人に「慣れる」ことができるのか--そのあたりを豊富な資料を縦横無尽につかないがら、この本はわかりやすく教えてくれます。

キーワードだけ引っ張り出すとすれば、「集団免責」、「機械の介在」、「物理的距離(離れているということ」がひとつの大きな契機になっているようです。

ひとつは、「ひとりでは殺せないが、集団なら殺せる」という「集団免責」、そして、自らの手を下すのではないという「機械の介在」、そして「戦闘の汗と緊張」を欠いた物理的距離、これが組織的にプログラム・規律されることでひとは「人を殺すのに何の抵抗もなくなってしまう」。

「条件付け」「プログラミング」という訓練スタイルを聞くと、ことさら耳新しい話ではないような感もなくはないのですが、興味深いのは、第二次大戦までの発砲確率と、ベトナムでのそれが大きく違うというところです。前者の時代、15~20パーセントの兵士しか敵に向かって発砲しなかったのに対し、ベトナムでは90パーセント以上が発砲するようになったということこと……。

適切な条件が機械的に有効に稼働するシステムの恐ろしさという平凡な事実なのでしょうが、これは軍隊の世界にだけ限られた条件ではないということでしょう。

さて……
人間には人間を殺すことへの強烈な抵抗感がもともと存在しておりますが、そのことは聞いてみても「あたりまえじゃん」という議論ですまされる部分が現実にはあります。しかしその一方で戦場で兵士が敵を殺すのも「あたりまえじゃん」と思っているふしも不思議に存在します。実はここが盲点なのかなと思う宇治家参去です。

どこかで自分の世界と、戦闘の世界を切り離して考える思考形式では、「本来……」の議論に「例外」を許容する発想、分断形式の発想から逃れ得ないということです。戦争を批判するのも人間であれば、戦争へ参加する兵士も人間であります。しかし、自分とどこか違う枠組みに、問題のある対象を「起き続ける」限り自分自身の問題にはならないのかもしれません。

人間が人間を殺すことへの抵抗感……戦争を憎む人にも存在すれば、戦争を積極的に肯定する人にも、必要悪として許容するにもあるのでしょう。その事実をふまえた上で、なにを「あたりまえじゃん」としていくのか……グロスマンの議論を読みながら、そのへんをふと切実に思う昨今です。

現実には、抵抗感があったとしても「なぜ人は人を殺すのか」というところがあり、それでもなおかつ「なぜ人は人を殺さないのか」という謎も存在します。しかしこの問題も切り離された議論ではなくひとつものの裏と表かもしれません。

あまり発想がまとまりなく(例の如く)、覚え書きのようなものですが、兵士の問題というのも自分自身の問題として「引き受けながら」現実のなかで思考する・理解する必要が痛切に存在するのだろうと思います。

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 人間が戦い、殺し合うのはなぜなのか、その理由を私たちは一度として理解したことがない。いまこそ、拒絶反応を克服して理解しなくてはならない。また、人間が人間を殺そうとしないのはなぜなのか、という問いも同じように重要である。なぜなら、互いに互いを殺し合うという、人間行動のなかでも究極的かつ破壊的なこの側面を理解しなければ、その側面に働きかけることもできないからだ。そしてそれができなければ、現代文明には存続の見込みがないからである。
    --グロスマン、前掲書。

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