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たんなる計算といえども、よい思いつきを得るための欠きえない一手段にはなる

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……ところが、近ごろの若い人たちは、学問がまるで実験室か統計作成室で取り扱う計算問題になってしまったかのように考える。ちょうど「工場で」なにかを製造するときのように、学問というものは、もはや「全心」を傾ける必要はなく、たんに機械的に頭をはたらかすだけでやっていけるものになってしまったかのようにかれらは考えるのである。だが、ここで注意すべきことは、こうした人たちの大部分が、工場とか実験室でどのようなことがおこなわれているかについてなにも知っていないということである。実験室でも工場でも、なにか有意義な結果を出すためには、いつもある--しかもその場に適した--思いつきを必要とするのである。とはいえ、この思いつきというものは、無理に得ようとしてもだめなものである。もとより、それはたんなる機械的な計算などとはおよそ縁が遠い。だが、たんなる計算といえども、よい思いつきを得るための欠きえない一手段にはなるのである。
    --マックス・ヴェーバー(尾高邦雄訳)『職業としての学問』岩波文庫、1980年。

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ようやく、学期末試験終了にて、本年度の短大の講義関係すべて終了しました。
セメスター制ですから、半期15回で「何が残せたのだろうか」……などと忸怩たる部分はあるのですが、考える材料、考える仕方、そして他者との摺り合わせ方は紹介することができたのではないかと思います。

哲学とは、人間とは何か、そして(人間の住まう)世界とは何かを、言語を操って探究する学問ですので、ひとはどこからでも考え、悩み、そして生きぬくことができるのだろうと思います。

大学の学問は確かに、現状として「実験室か統計作成室で取り扱う計算問題」のようなところは厳然として存在します。その最も遠いところに位置するのが、哲学とかそうした根本学になるのですが、それでも「計算問題」も無駄ではないのだろうと思います。

要はそこからどうしていくのか。

その部分にかかっていくのでしょう。

愚者は退き賢者はよろこぶのが道理です。

その意味で、小さな賢者たちにとっては、「たんなる計算といえども、よい思いつきを得るための欠きえない一手段にはなる」のだろうと思います。

そのきっかけを学んで頂けたのであれば、所定の目的を達成したのではないかと思います。

試験、お疲れ様でした。

しかし!

試験は、受ける方も大変なのは体感的に理解しておりますが、しかし! 実は採点し、成績をつけるのも、それ以上に大変です!

試験の1時間は、ぼんやりすごしておりましたが、これからが自分の試験時間……のようですね。

とほほのほい!

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