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痛みに耐える能力のかそけき光は色褪せた

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 非暴力という方法は、漸進主義か即決主義かという、あの永い間論争されてきた問に正しい答えをあたえてくれる。非暴力は、一方では、無為にすごしたり逃避したりすることに口実をあたえて、結局は一カ所に足ぶみさせることになるような忍耐におちいることをふせぎ、いま一方では、和解させないでたがいの仲を割くような無責任な言葉をはいたり、社会の必然的な動きにたいする盲目な性急な判断におちいったりすることをふせいでくれる。それは、賢明な抑制と冷静な理性をもって正義の目標にむかってすすむことの必要をはっきりとみとめている。だが、それは同時に、正義にむかう歩みをおくらせたり、不正な現状を守る人たちに屈服したりすることが不道徳であることをもみとめている。それは、社会は一夜にして変革することができないことをみとめながらも、人々をして翌朝社会を変革することができるかのように活動させるのだ。
 非暴力を通じて、ぼくたちは、勝利者気分になる誘惑をさけることができる。主として全国有色人向上協会の立派な有効な働きのおかげで、ぼくたちは連邦裁判所で偉大な勝利をかちとった。ぼくたちは、ぼくたちに反対する者を理解し、裁判所の命令が彼らの前に提出する新しい調整をうけいれながら、一切の判決にこたえねばならない。ぼくたちは、ぼくたちの勝利が、白人であると二グロであるとをとわず、一切の人々の善意の勝利となるように行動せねばならない。
 非暴力とは本質的には積極的な考えなので、そこからはいつでも必ず成長という考えがでてこなくてはならない。非暴力は一方では悪と協力しないことを要求するが、他方では、善の建設的な力と協力することを要求する。こうした建設的な面がなければ、悪との非協力は、それがはじまったところでただちに終わってしまう。だから、二グロは、広汎な積極的な目標をもつ綱領にもとづいて活動せねばならないのだ。
    --M・L・キング(雪山慶正訳)「ぼくたちはここからどこへ進むのだろうか?」、『自由への大いなる歩み』岩波新書、1959年。

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授業の関係で、キング(Martin Luther King, Jr,1929-1968)の文献を再読しておりますが、キングにしても、ガンジー(Mohandas Karamchand Gandhi,1869-1948)にしても共通しているのは、敵と戦っていても、その敵を叩き潰して勝利の雄叫びをあげるという発想が皆無という点です。

うえの文章は有名なバス・ボイコット事件が勝利のうちに終結したあとに記された文章なのですが、「ぼくたちは、ぼくたちの勝利が、白人であると二グロであるとをとわず、一切の人々の善意の勝利となるように行動せねばならない」と語るとおりです。

たしかに、運動としては一方の側に立って、キングも言うとおり「悪を責める」必要があるわけですし、その「攻撃を加えることと結果を治療する」ことが重要になってくる訳なのですが、そうした善悪二元論に収まりきらない人間論と運動論の相関関係があるのでしょう。

「悪を放置してはいけない、責め続けよ」という言葉をどこかでキングは残しておりますが、それでもなおかつ、実践と発想は、その責める側と責められる側の分断構造を慎重に退けながら「一切の人々の善意の勝利」を目指す方向であったがゆえに、ある意味では、世界史的な偉業になったのではないだろうか……などと思ってしまいます。

目の前に存在する「悪」は放置しない。
そしてローザ・パークス(Rosa "Lee" Louise McCauley Parks,1913-2005)が法的に制度化された人種分離のバスのなかで、「No」と叫んだように断固として立ち上がらなければならない。
しかし、大切なのは、「勝利者気分になる誘惑をさけること」なのでしょう。
そしてそれは、「非暴力」によって可能になるのでしょう。

ガンジーは、暴力の本質は臆病だと喝破しましたが、その意味でも、そうした人間の内発性に由来する「非暴力」は、勇者の思想と実践で、美徳なのだと思います。

どこを見みわしても、暴力が蔓延している社会です。
たしかに、そういう時代になった責任は、累々と積み重ねられてきた先人たちのそれかもしれません。しかし、それを非難したり、なげくだけでは時代は変わらない。
自分たちの今生きている時代からはちがう時代をデザインするんだと、立ち上がるしかないんでしょうね。

そういえば、ちょうど読んでいたレヴィナス(Emmanuel Lévinas,1906-1995)も、「暴力」の問題に関して面白い文章を残していたので、ひとつ紹介しておきます。

「暴力の非道徳性は痛みをもたらしたはずだが、その痛みもヒロイズムのなかで鈍らされる。ヒロイズムこそ暴力の温床であり、ひとびとがその救いを求め見いだす先なのである。現代世界は忍耐の美徳を忘れてしまった」

忍耐とは、ひたすら、悪とか暴力の存在を堪え忍び「受け入れる」このように思われがちですが、実はそうではなさそうです。

苦痛に対する鈍感は忍耐なのではなく、かえって暴力を増長させてしまうヒロイズムなのかもしれません。

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 さてに現代が暴力の時代であることに疑いの余地はない。暴力とは単に野蛮な行為のみを言うのではない。暴力とは単にエゴイズムのみを言うのではない。暴力は精神的危機のこみいったもつれを快刀乱麻にさばいてみせようと豪語している。暴力は心の問題の方程式の根として登場している。自らを救いの道、魂の治療法として称している。知識人たちは自分たちに特有の在り方をまるで脱力、老衰したものであるかのように恥じ入っている。彼らが熟慮することを恥じ始めたのは半世紀近く前からである。万古不易の本質など人をうんざりさせるばかりである。彼らは今や行動のなかで問題群の始まりを一刀に両断したいと願っている。事象の流れとの暴力的な断絶は--それが去りゆくものを引きとどめるためであれ、なかなか去ろうとせぬものの尻を蹴上げるためであれ--霊を自分自身の出発点に再び送還することになろう。事象の緩慢な変容は耐え難い。となれば傲岸な若者たちの最も激烈で最も非反省的な生き方が、まるで彼ら若者たちこそがその未成熟ゆえに諸文明がため込んできたあらゆる問題をことごとく解決してくれるかのように、もてはやされたとしても怪しむに足りない。例外のほうが規則よりも価値があり、戦いのほうが労働より甲斐がある。粗暴で苛酷で向こう見ずで英雄的で危険で強烈なものなら何でもかんでも祝福される。子供たちにみんながおもねっているのである。冒険を拒否すれば生きることに怯えていると告発される。このような怯え以上に卑劣なものはないらしい。
 しかし暴力はたとえそれが不可避でありかつ義のためのものであるとしても、そこに賭けられた危険あるいは死によって高価にかつ貴族的に償われていたとしても、それ自身では何の価値もないのである。暴力の非道徳性は痛みをもたらしたはずだが、その痛みもヒロイズムのなかで鈍らされる。ヒロイズムこそ暴力の温床であり、ひとびとがその救いを求め見いだす先なのである。現代世界は忍耐の美徳を忘れてしまった。全員がただ一度の機会に一斉に身を投じるスピードのある効果的な行動の前では待機し、痛みに耐える能力のかそけき光は色褪せた。だがエネルギーの絢爛たる誇示は人を殺す。あの忍耐の美徳を思い出さねばならぬ。革命的精神に反対する諦念を説くためにではなく、忍耐の精神を--真の革命に結びつける本質的紐帯を感じさせるために。真の革命は宏大な憐憫から生じる。武器を執る手はその挙措の暴力性によって必ず報復される。この苦痛に対する無感覚が革命家をファシズムとの境界線へと連れてゆくことになるのである。
    --E.レヴィナス(内田樹訳)「忍耐の美徳」、『困難な自由 --ユダヤ教についての試論--』国文社、1985年。

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 もし卑怯と暴力のいずれかを選ばなければならないとすれば、私は暴力を勧める。…… [続きを読む]

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