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「自然に帰れ」……と言われても

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 結論を述べよう、--森の中をさまよい、器用さもなく、言語もなく、住居もなく、戦争も同盟もなく、少しも同胞を必要としないばかりでなく彼らを害しようとも少しも望まず、おそらうは彼らのだれをも個人的に見覚えることさえけっしてなく、身か偉人はごくわずかな情念にしか支配されず、自分ひとりで用がたせたので、この状態に固有の感情と知識しかもっていなかった。彼は自分の真の欲望だけを感じ、見て利益があると思うものしか眺めなかった。そしてかれの知性はその虚栄心と同じように進歩しなかった。偶然なにかの発見をしたとしても、彼は自分の子供さえ覚えていなかったぐらいだから、その発見をひとに伝えることは、なおさらできなかった。技術は発明者とともに滅びるのがつねであった。教育も進歩もなかった。世代はいたずらに重なっていった。そして各々の世代は常に同じ点から出発するので、幾世紀もが初期のまったく粗野な状態のうちに経過した。種はすでに老いているのに、人間はいつまでも子供のままであった。
 私がこのような原始状態の仮定についてこれほどまで長々と述べてきたのは、古い誤謬と根ぶかい偏見とを打ちこわさなければならず、それには根元まで掘り下げて、不平等なるものがたとえ自然的なものであっても、わが著作家たちの主張するような現実性と影響力とをこの状態のなかでもつにはいかほど遠いかということを、真の自然状態の画面のなかで示されなければならないと考えたからである。
 実際、人々を区別する差異のうちで、いくつかのものは、自然的な差異として通っているが、それらが単に習慣と、社会のなかで人々が採用するさまざまな生活様式との産物であることは見やすいことである。だから、強壮な体質か虚弱な体質か、それによって力が強いか弱いかは、根本的な体格よりむしろその育て方がきびしいか柔弱であるか、ということに基づくことが多い。精神の力についても同様であって、教育は教養のある精神とそうでない精神との間の差をつけるだけでなく、前者の間にも教養に比例して見いだされる差をひろげる。なぜなら、巨人とこびとが同じ道を歩くとすれば、彼ら二人とも一歩歩くごとに、巨人のほうが新しい利点を得ることになるだろうから。ところで、いま社会状態のさまざまな階級を支配している、教育と生活様式のおどろくべき多様性を、みんなが同じ食物を食べ、同じように生活し、正確に同じことをしている動物や未開人の生活の単純さと一様性とに比較するならば、人と人との差異が、自然の状態においては社会の状態よりもいかに少ないものであるか、また自然の不平等が人類においては制度の不平等によっていかに増大せざるをえないかが理解されるであろう。
    --ルソー(本田喜代治・平岡昇訳)『人間不平等起源論』岩波文庫、1972年。
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専制制度の虚構と「社会的あるいは政治的不平等」の問題の不正さを鋭く撃ち、フランス革命の思想的原動力となったがルソー(Jean-Jacques Rousseau,1712-1778)の思想なのですが、ルソーは、言うなれば「後天的」に形成された不・平等を撃ち抜くために、不平等がほとんど存在しなかった「自然状態」なるものを想定します。

人々は、不平等のほとんど存在せぬ自然状態を抜け出すなかで、歴史的な「進歩」とやらを経験して参ります。しかしながらその過程で不平等を生み出され……それが私有制・富・権力の発生という筋道ですが……、その不平等の現実を「肯定」するようになってしまったの現実ということのようで……。

自然界における有限存在としての人間に対する「自然的不平等」(すなわち自然界の法則・掟から不自由という意味)はどうしようもないので、ある意味で「致し方」ありません。しかしながら「社会的または政治的不平等」は「致し方ない」として放置するわけにもまいりません。だからルソーは前者と後者を厳しく峻別した上で、「社会的または政治的不平等」の起源を明らかにするとともに……不平等の存在しない自然状態へ「帰れ」というわけです。

その叫びは、現実にはアメリカの独立、そしてフランス革命の思想的淵源となり、そして近代の人権論の礎のひとつになったのは疑いのない事実であり、何もそれを揶揄しようとか非難しようなどとは毛頭思っておりません。

虚偽の社会と文化の在り方を根柢から批判したルソーの言説には、確かに力強さが存在します。しかしながら、そこには近代という時代の功績のみならず、罪責が含まれていることも確認はしておかないといけないのだと思います(罪責に注目しすぎることで、ルソーの心根を全否定するということではありませんが)。

で……
ひとつ注目したいのが、ルソーがよく持ち出してくる「自然状態」という問題です。
通俗的な使用方法に従うならば、人間は、現実世界の在り方を批判する際、「本来的な在り方ないしは本来そうあったはずという在り方」として(過去に存在したと想定される)「自然状態」を想定し、現状を反省する視点がございます。それともうひとつは、「こうあるべき在り方」という……時間論的に言えば未来論としての……「理念的な在り方」から現実を反省する視点ももちあわせております。そうした範型をもとに現実を反省し、現実を更新していく作業を着地させていく……それが人間なのでしょう。そこで、繰り返しになりますが、今日はひとつ、最初の視点、すなわち「本来的な在り方ないしは本来そうあったはずという在り方」として(過去に存在したと想定される)「自然状態」の問題に注目してみたいと思うのです。

論理的な枠組みとしては上に示したような形になりますが、語法としてはどのように出てくるのでしょうか……。

考えてみますと、例えば、相手(乃至は自己)の行為や発語に対して、その在り方を非難する際、「それは自然ではない」、「それは“本来そうであった”在り方と違うよ」っていう言い方になるかと思います。

そうした反省によって、例えば、矛盾のある現実のありようがたゆみなく「更新」されるのであれば、まったく問題はないのですが、自然状態にこだわりすぎると実は問題なのではなかろうか……そう発想する宇治家参去でございます。

ルソーは、人間の原初状態、すなわち、支配-被支配の関係がまったく存在しない・ないしは関係がかなり希薄な状態、を「自然状態」として捉え、現存する社会の在り方が人間を人間として扱わない「自然」とか「本来」という在り方から「逸脱」した状態として批判しているわけですが、しかしながら、そもそも「自然状態」というものなどあったのかな?という部分です。くどいようですが、現実の矛盾そのものを批判する発想を批判しているわけではありません。しかし冷静になって考えてみると、そもそも「そのような状態など存在したのか?」という確認のできない不可知論の議論へと誘われてしまうだろう~と思ってしまうのです。

もちろん、ルソーも『人間不平等起源論』を著すにあたって、そうした歴史的資料を扱っております。当時ぼちぼち集まり始めた、植民地支配の進展のなかでの、いわゆるヨーロッパ社会から見てのですが、「未開社会」のレポートを参考にしながら、支配-被支配、私有制の緩い状況に、「自然状態」といわば「自然人」を理想化しながらまとめているようです。人間として致命的に変質してしまったヨーロッパ人よりも、不完全ながらも真に人間であるの自然人は「未開の人間社会」に存在するのだろう……そういう議論なのですが……。

果たして無垢な「自然状態」なんて存在するのでしょうか--。

なにやら滅菌室のような気がする、少し疑義の拭いきれない宇治家参去です。

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