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あらゆる目的に先んじて与えられている生活世界を前提にしている

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 さしあたって、われわれは次のことを思い起こそう。すなわち、われわれが学問と呼んでいるものは、われわれにとってつねに生活世界として妥当している世界の内部での、特殊な種類の目的活動と合目的的作業であり、その点では、普通の語義でのすべての人間の職業と同じことであるが、学問的な志向、また多少とも孤立した、偶発的な、多かれ少なかれ一時的な関心が属している。これらすべては、人間としての立場から考えれば、人間的生活と人間的習慣性の特殊な形態であり、それはすべては、すべての作業が流れ込み、すべての人間やその作業活動や能力が、たえずそこに属している生活世界の普遍的枠内に存している。言うまでもなく、この固有の在り方をもつ普遍的な生活世界自体に新たな理論的関心を向けるためには、これらすべての関心についてのある種の判断中止を必要とする。すなわち、われわれの目的追求や、合目的的な生活につねに付随する方法、目標、目的自体についての批判--たとえば、それらが事実上確保されているかどうか、その方法が正しい方法として守られるべきであるかどうか、などというような批判--に対しての関心についての判断中止を必要とする。われわれに慣習的に妥当している目的のうちに生きているときには--いま、そのどの目的が「番にあたっている」かはともかく--、われわれはたしかに生活世界の地平に生きており、そこに生起するものは、その世界に生活世界的に存在するものなのである。しかしそこへ向けられているということは、普遍的な地平へ向かっているということでもなければ、目的とされたものをこの地平の存在者として主題化することでもなく、したがって主題となった生活世界の存在者として主題化することでもない。それゆえ、学的関心であれその他の関心であれ、それらすべてを追究することをさし控えるということが、まず第一になされるべきことである。しかし、判断中止だけでそれをするというのではない。すべての目的設定、すべての企図も、すでに世界的なものを前提にしているし、それとともに、あらゆる目的に先んじて与えられている生活世界を前提にしているのである。
    --E.フッサール(細谷恒夫・木田元訳)『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(中央公論新社、1995年)。

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近代哲学が登場したとき、ひとびとは、哲学(ないしは「学」というもの)は世界の全体を普遍的に認識する根本的方法原理になるのではないかと思い、そのことに期待した。それまでは教会へ行けば普遍的な根本原理が教えてくれたものですが、権威が崩壊するなかで、ひとはどこに認識の基盤を置けばという悩みの前に、デカルト(René Descartes,1596-1650)の方法的懐疑はひとつの光明を示したのでしょう。デカルト以降の哲学の歩みは、存在論から認識論へのシフトということになりますが、その後の展開には確かに目覚ましいものがありました。

しかしながら、この世界全体を普遍的に認識するという可能性は、結局挫折します。
自然科学の方は19世紀以降、目覚ましい展開を続けますが、問題なのは「人文諸科学」のほうであります。それが、哲学、歴史学、心理学、社会学、経済学という学問で等しく生じた信念主義と客観主義という対立という事態です。

自然科学をモデルにしながら、人文諸科学でもまさに諸「科学」と称するように、学としての「客観性」「実証性」の探究が試みられましたが、結論から先に言えば、これがなかなかうまくいかない。科学であろうとすればあるほど、現実から遠ざかり、信念系にこだわろうとすればこだわるほど、結局かたくななイデオロギー対立になってしまう。

こうした状況を目の前にした現象学者・フッサール(Edmund Gustav Albrecht Husserl,1859-1938)は、学問そのものが一般の人間の信頼を失うのではなかろうかと危惧したのだと思います。晩年の主著のひとつ『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(1936)なんかはそうした問題意識の痛切な現れなのだろうと思います。

しかし、現実から遠ざかる方向を避けるあり方、そして信念系にこだわるイデオロギー化をさけるあり方の見本がなかなかみつからない。ひょっとするとその見本などないのかもしれません。

それでは、生活世界のぐだぐだのまんま過ごせばいいのか……、それとも、学問の理念の王国の住人として過ごせばいいのか……などと発想してしまいがちですが、そうではなく、むしろそうした二項対立自体が、学問世界(諸科学)VS生活世界という、実は「アリモシナイ」認識構造を仮説としながら、「演じている」対立なのかもしれません。

学問(人)でありながら、生活(人)でもあるのが、本当のところなのでしょう。

お互いが、お互いを照射するところに、適度な関係が築けるのではないのかな……などと思う宇治家参去です。

客観性も人間を離れては存在しませんし、生活世界も人間と離れては存在しません。

むしろ、その両者を切り離して論じようとするところに、議論のレトリックにのみこまれてしまい、現実感覚を失ってしまう契機が潜んでいるのかも知れません。

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著者:エドムント フッサール
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