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「野蛮状態へ落ち込んでいく」ぐらい理性を使いなさい

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 (一)啓蒙時代の哲学者は、人間の際限なき完成への可能性と歴史の進路を決定する人間--少なくとも啓蒙された人間--の力を信じた。そして、たとえ歴史の経過が予見もされず、あるいは意図もされなかったような結果に導こうとも、「理性の狡智」が進歩のために働いていると考えられた。科学によって啓蒙された人間は、人類を増大してやまぬ福祉へと導く未来への道を知っている。このような楽観主義にとっては歴史は実際意味をもっている。この楽観主義の点では、マルクスさえも啓蒙主義やヘーゲルと意見を一にしている。すなわち、マルクスも歴史の進路が理性によって定められていることを信じるのである。
 しかしながら、ヘーゲルは歴史というものは理性への信仰と切離して見ると、「いともおそるべき光景をつくりなし、最も深い感動と最も希望なき悲しみとをひき起す」〔K・レーヴィット前掲書五三頁〕ということを意識していた。というのは、激情と邪悪が世界史を支配する力だからである。彼は元来人間の善性と完成への可能性は信じないが、人間の不条理にもかかわらず歴史を支配する理性は信ずるのである。
 しかし、歴史が理性に対するこの信仰なしに見られる場合にはどうであろうか。人間の善性と完成への可能性とに対する信仰--それは果たして不変のまま残り得るであろうか。啓蒙主義の楽観主義--それは確乎として残り得るであろうか。例えば、リスボンの地震はおそろしいできごとであった。また、第一講において、われわれはフランス革命がその意図に反する結果に終わったことを見た。すなわち、自由な憲法の代りに軍による専制、自由な諸国民の連盟の代りに帝国主義、平和の代りに戦争がもたらされたのである〔本書三-四頁を見よ〕。さらに、十九世紀の実験の進行--それは啓蒙主義の信仰を正当化したであろうか。
    --R.K.ブルトマン(中川秀恭訳)『歴史と終末論』岩波書店、1959年。

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人間は理性の力を適性に用いることで、その知福を増大させ輝かしい未来をこの地に実現させることが可能であると、人々にその見取り図を鮮やかに示して見せたのが18世紀の啓蒙主義(Erleuchtung)の光明だったのですが、現実には、理性を使って人間はどこへ導かれたのでしょうか。

聖書学者のブルトマン(Rudolf Karl Bultmann, 1884-1976)が「ギフォード講演(Gifford Lectures)」で分かりやすく指摘している通り、「自由な憲法の代りに軍による専制、自由な諸国民の連盟の代りに帝国主義、平和の代りに戦争がもたらされた」のがいうまでもない現実です。
※言うまでもありませんが、ブルトマン自身は別に理性「主義」とか啓蒙「主義」を批判はしても、「理性」とか「啓蒙」そのものを批判しているわけでもありませんし、新約聖書を徹底的に史的・批判的に研究することでその学問の世界に一時代を築いた人物です。
話がそれましたが……

さて、第二次世界大戦で辛酸を経験したドイツの哲学者ホルクハイマー(Max Horkheimer, 1895-1973)とアドルノ(Theodor Ludwig Wiesengrund Adorno, 1903-1969)は共著(徳永恂訳)『啓蒙の弁証法』(岩波書店、2007年)のなかで、「何故に人類は、真に人間的な状態に踏み入っていく代りに、一種の新しい野蛮状態へ落ち込んでいくのか」というテーゼを立て、するどく問題を追及しました。

その中で二人が指摘したのが、「道具的理性」が社会全体を支配しているということです。

では、この「道具的理性」とは何でしょうか。

すなわち、それは合理性を追求するために自分を含めた他者を手段とする構造……すなわち、道具として動員する……判断基準を持つ精神構造のことです。二人は社会構造・経済構造の根底を支えるのは「道具的理性」であり、政治構造・経済構造を変革しても、それを組み立てている近代社会の精神構造=道具的理性が変化しなければ、なにも変わらないと見ています。

本来、「神話を解体し、知識によって空想の権威を失墜させることこそ、啓蒙の意図したこと」(徳永訳前掲書)だったのですが、「啓蒙は通訳しきれないものを切り捨てる。たんに思考のうちで質的なものが消失するだけでなく、人間は否応なく現実に画一されていく」(同前)流れになってしまいました。

理性は自己反省ができません。
だからカント(Immanuel Kant, 1724-1804)は『純粋理性批判』のなかで、理性の能力を限界づけようと試みたのでしょう。

しかしその理性そのものの絶対化が一旦構築されてしまうと、結果としては、「通訳しきれないものを切り捨てる」合理化と、「画一」していく他者手段化の構造も同時に反省・検討されないまま、所与のものとして全面的にシステムとして稼働してしまいます。

考えてみれば、現代人は確かに理性を使って合理的な判断を用いて生活をしております。
例えば、どこかへ行くにしても、コスト・時間・労力を「考えて」移動手段を選択します。急ぎの仕事で東京(駅)から、横浜(駅)へ行くために、東京から一旦西船橋へ出てそこから武蔵野線へ乗り換え、西国分寺駅で中央沿線に乗り換え、そして横浜線で横浜へ向かうひとは皆無でしょう。

その意味で理性を使って「賢く」生きることは必然であり必要不可欠なモーメントです。

しかし、それと同時にアウシュビッツの狂気も、ポルポトによる大虐殺も、狂気の上に行われた惨事ではなく、理性的・合理的判断の結果行われたものでもあるのもまた事実です。

そうした経緯からなのでしょう……。
現代哲学の世界では「理性」とか「啓蒙」だとかという言葉に敏感で、一昔前のような「光輝ある」「高貴な」概念としてして使用してしまいますと、いぶかられてしまうのが現状です。

ですけど、現実の生活の中では、果たして「何故に人類は、真に人間的な状態に踏み入っていく代りに、一種の新しい野蛮状態へ落ち込んでいくのか」というほど、理性を使っているのだろうか……という疑問も出てくるのがひとつの生活実感です。

ちょうど火曜日から、インフルエンザで出社停止になっているのですが、所要の確認のため、市井の職場へ電話をいれると、一件懸案事項が案件クローズになっており、一安心しました。その案件とは、クレームの後処理なんですが、後味の悪いクローズですが、自分の手を放れ、一安心したのも事実です。

ちょうど、年頭。

詳しくは措きますが、テナントに対するクレームのようにて、「できる/できない」というサービスに対して怒り心頭の御仁ようにて、「店長を出せ」ということ。

その日。
店長はちょうど冬休みの最終日にて、本日の最上席者(副店長格の課長)も運良く?事件の5分前に帰宅……、で、上位在籍者が宇治家参去一人のみというオサムイ状況で……、名詞をお渡しして、深々と謝罪を申し上げ、矛を収めて頂いた次第です。

ちなみに少し「恐かった」です。

退店後、そのテナントの担当者に状況を確認すると、当該人物の「異議申し立て内容」とかなり状況が違ったようで……。

念のため、隣のテナントの方にもヒアリングしてみると、同じ様子のようでして……。

つまり、「これをやってくれ」ということに対して「できない」と対応されたということに対するクレームだったのですが、確認してみると、「できない」ではなく、「ただでやれ」だとか「お預かりしたうえでの対応になる」と細かく丁寧に説明した事実も判明し……、結局なんだったんだろう……という茫然自失です。
※要は、例えばテレビの修理を持ち込んできて、テレビの修理なんかは、よくわかりますとおり、配線問題を除いて機械内部の問題の場合、1時間2時間では修理できず、お預かり対応になるのですが、まあそれを、なんで今日中にできないのだ! ここで買ったからタダで直せ!(因みに持ち込みの商品はうちでは扱っていないメーカーなのですが)……という内容です。

クレーム(claim)とは、まさにそのまんま……「異議申し立て」ということで、それはサービスを受ける側、すなわち消費者の立場としては、間違いのない「正当な権利」だと思います。

異議を「申し立てられた側」は「真摯」に受け止めることによってサービスを向上させることが可能になりますし、不利益を被った側は不利益を「回復」します。その意味ではその申し立ては、くどいようですが「正当な権利」であると思いますし、受けた側にとってもそこから未来を切り開く「生産的」な契機なのだと思っております。

だからこそ、出来る範囲で丁寧に説明し、応対し、そして「回復」を目指すことに関しては「手を抜く」ことができません。

しかし……。
最近、そうしたカテゴリーに当てはまらないような事案が多く、「結局なんだったんだろう……」という茫然自失してしまうことがしばしばです。

で……
話は戻りますが、結局そのお方、翌日は電話で一時間大騒ぎ。
数日後、再度来店され、またお店で大騒ぎのあげく、「なんかくれ」。

「なんかくれ」……はないよなあと担当した課長と話していたのですが、その時は、とりあえず、謝罪で応対し、お引き取りいただいたとのこと。

結局、「過剰請求」と判断せざるを得ず、次回があった場合は、警察と会社の法務担当での対応……という流れに決定し、案件がクローズしたという次第です。

さて……ここで終わると、ある企業のクレーム担当者の「嘆き」「ぼやき」で終わってしまうので、最初の問題に戻ります。すなわち、「啓蒙主義」とか「理性」の問題です。

人間に光を与えると同時に、闇の部分を合理的に拡大させるのが「理性」とか「啓蒙主義」の落とし穴かもしれません。

しかし、それ以上に、くどいようですが、その前に、それほど「理性」を生活のなかでは使っていないのではないだろうか……クレームと対峙するなかで、そのことをひしひしと感じます。

「大声を出した者が勝ち」というわけではないと思うのですがねえ。

しかし、「大声を出した」方が「勝てる」というのも「理性の狡知」とでも考えればよいのでしょうかねえ。

で……。
すこし熱は下がり始めたので、栄養をつけようということで、昨夜はすき焼きでした。
やはり「すき“焼き”」ですので、最初は“焼き”ながらやりましたが、これをやると、どうしてもあれがほしくなるわけで、軽くビールと日本酒(にごり・桃川酒造)で一杯です。

熱は下がり始めているのですが、けだるさがとれておりません。

理性的に判断を下すならば、病み中で、酒を摂取するのは非理性的な行為なのですが……自分自身が理性を説きながらも、非理性的な行為をやってしまいますので、非理性的な御仁にからまれることが多いのだとすれば、すこしオサムイ話です。

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