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文は文字ではない、思想である

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  思想の軽蔑
 純潔なる思想は書を読んだのみで得られるものではない。心に多くの辛い実験を経て、すべての乞食根性を去って、多く祈って、多く戦って、しかる後に神より与えられるものである。これを天才の出産物と見做すのは大なる誤謬である。天才は名文を作る、しかも人の霊魂を活かすの思想を出さない。かかる思想は血の涙の凝血体(かたまり)である、心臓の肉の断片である。ゆえに刀をもってこれを断てばその中より生血(いきち)の流れ出るものである。ゆえにいまだ血をもって争ったことのない者のとうてい判分することのできるものではない。文は文字ではない、思想である。そうして思想は血である、生命である。これを軽く見る者は生命そのものを軽蔑する者である。
       明治三十六年(1903)

    --鈴木俊郎編『内村鑑三所感集』岩波文庫、1973年。

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昼過ぎから、来週締めきりのレポートを添削しておりましたが、年末年始に投函された量がまとめておくられてきましたので、結構、苦悩しながら格闘している宇治家参去です。

昨年は26日配達分で終了しましたが、その後の投函分と年始の投函分で通常のおよそ約2倍です。

ようやく半分までおわりましたが、今回の分は、いつもと様子が少し違います。まずひとつは、レポートそのものや余白に「卒業レポート」、「卒業エントリーがかかっています」との表記が目立つモノが多いということ。勝敗を決する大切なレポートですから、水準もおのずと高い作品が目立ちます。

そして、次に多かったのが……これも初めてですが……自分が講義した授業に参加した学生さんたちのレポートで、およそ全体の1/3がそれに当たります。

どの作品も力作揃いで嬉しいことなのですが、コメントが一様にならないように注意しないといけないのが悩みとなってしまいます。

さて……
倫理学なる学問は道徳学と事なり、体系や規範を所与のものとして論じる学問ではありません。体系にしろ、規範にしろ、自己自身で点検しながら、そして点検した事柄が、偏っていないのか全体のなかでさらに点検し続けるという、ある意味で難渋な学問です。

しかし生活の中でこそ、その威力が遺憾なく発揮できる学問ですので、届けられるレポートを読んでおりますと、やはり、そのひと、そのひとの、体験、日常生活というものが、学問の視点から念入りに点検されており、実は、レポートを確認しながら、添削者の自分自身がかえって学ぶというところが多いのも事実です。

まさに内村鑑三(1861-1930)のいう通り、「純潔なる思想は書を読んだのみで得られるものではない」のでしょう。「心に多くの辛い実験を経て、すべての乞食根性を去って、多く祈って、多く戦って、しかる後に」まとめられた「文字」が素晴らしいレポートとして届いてきているのだろうと想像しております。

もちろん、単位の取得とか制度的なアプローチをとるならば、「機械的に」「適当に」まとめてだしちゃえば済みますし、それでも、それなりの水準を獲得することは難しくないとは思います。

しかし、自分が教材と生活世界の往復運動を繰り返す中で、発見し、自分で考え、そして考えたコンテンツを再度検証していく……ところにこそ学問の醍醐味は無論存在することは忘れてはいけないのだろうと思います。

特に倫理学のレポートを読んでいると(まあ、課題もそうした作業を要求する課題ではあるわけですが)、その営みが活字になっているのだなあと実感しております。

ですから……。

「これを軽く見る者は生命そのものを軽蔑する者である」

……ということになってしまいますので、神経を使いますです、はい。

しかし、レポートの書き手がレポートに対して過敏に深刻になりすぎて、一文字も書き出せないというのも問題ですよね。
そこで、内村鑑三が、同じ書物で次のように言っている部分が参考になるかと思います。

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  不断の努力
 必ずしも大著述をなすに及ばない、小著述にて足る。われはわが見し真理を明瞭簡単なる文字にて綴りてこれを世に示すべきである。必ずしも大事をなすに及ばない、小事にて十分である。われは神に遺(おく)られて世に来りし以上はかれの造り給いしこの地球を少しなりとも美(よ)くなして天父(ちち)のもとへと還り往くべきである。必ずしも完全なるを要せず、不完全なるものまた可なりである。われは毎日毎時わがなし得る最善(ベスト)をなして患難(なやみ)多きこの世に少しなりとも慰藉(なぐさめ)と歓喜(よろこび)とを供すべきである。「なんじ己のために大事を求むるなかれ」と預言者エレミヤその弟子バルクを訓えていうた(エレミヤ記四十五章五節)。大事のみをなさんと欲する者は何の得るところなくしておわる。なにごとをもなさざるは悪事をなすのである。実に偉大なるの一面は小事に勤(いそし)むことである。完全なるの反面は不完全に堪うることである。大なり小なれ、完全なれ不完全なれ、わが手に堪うることは力を竭(つく)してこれをなすべきである(伝道の書九章十節)。
       大正六年(1917)
    --内村、前掲書。

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ときには課題の大きさや、要求範囲の「おののく」ことって現実にはあります。まさに「大事」に眩暈がしてしまうという部分でしょう。しかし、「小事」から手をつけていかないかぎり、大事を成就することは不可能なのでしょう。
よく、指導教官の鈴木先生に次のように諭されたことがあります。すなわち……。
「(400字詰原稿用紙で)500枚、1000枚書けっていわれると、対象の大きさに圧倒されて、何もしないでおわってしまうということがよくあるけれど、実は、1日1枚でも、3枚でも書けば、1年たてば自ずと仕上がるものなんだよ」

まさに……

「大事のみをなさんと欲する者は何の得るところなくしておわる」
「完全なるの反面は不完全に堪うることである。大なり小なれ、完全なれ不完全なれ、わが手に堪うることは力を竭(つく)してこれをなすべきである」

……という部分でしょう。

不断の努力、普段の努力がやっぱりものをいうのが、学問に限らず、人間世界の実情です。そこを忘れてしまうのも実情ですが、ときどき自分自身を点検しながら、積み重ねていくしかありませんね。

昨年は、自分自身も論文の仕上げを結局1日でスパークさせるという離れ業をやってしまいましたが、今年は着実に攻めていこうと思います。

さっ、仕事に戻ります。

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