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大学の個性を感じながら、琥珀のバスペールエールと幸福な再会

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 学校歴主義が批判され、能力主義が批判される背後には、人間の能力は学校歴や試験でテストされる学力で示されるものではない、という考えがかくされている。人間の能力には知的なもののほかに、いろいろな能力がある。人間はその組み合わせでできている。それを知的な能力、しかも条件反射的に答えていくような能力だけが重視される入学試験で、受験生の能力を判定しようとする天に、問題がないか。大学が豊かな教養をあたえることを一つの目的とするならば、知識一元的な考え方は反省しなければならないであろう。もちろん、大学が大学である以上、知性が重視されなければならない。しかし、他の能力もそれぞれに評価するような、多元的な考え方が必要であろう。
 といっても、大学がそれらの多くの能力をテストして入試させる、ということはできるはずがない。その点で意味をもっていたのが、実は各大学のカラーであった。人間にはそれぞれ個性があるように、大学、とくに私立大学には、それぞれの個性があった。バンカラな大学もあれば、紳士を教育しようという大学もあり、知的水準の高い大学もあれば、男子に対抗して女子にも高等教育をあたえようという大学もあった。大学に個性があれば、きみたちも、自分の個性あるいは特性にあった大学をえらぶことができる。ところが、不幸なことに、新制大学になってから、大学の個性はだんだん小さくなっていった。これはエリートの大学からマスの大学への変化と、結びついている。だが、マスの個性になったから、個性は必要ない、ということはありえない。一人一人のもっている個性をのばすことが、教育の基本的な課題であり、これがよりよく果たされるためには、大学がそれぞれのカラーをはっきりさせることである。そのため、入学試験にもそれぞれの特色があってよい。きみたちも、偏差値で大学を見るのでなく、大学のカラーで大学を見る目をもたなければならない。
 そう考えれば、すべての大学を平等なものにしよう、という意見が正しくないことも、明らかになっていく。かつて、ジャーナリズムは早稲田、実業界は慶応という評価があった。そういうカラーをなくして、すべての大学を似たようにするのではなく、東大は東大、一橋は一橋、明治は明治、立教は立教、同志社は同志社、と個性をもった大学をのばしていくことこそ、大切である。そしてきみたちも、まだまだ残っているそれぞれの大学の個性をよく見て、自分の個性にあっていると思われるところに、挑戦すべきである。
    --隅谷三喜男『大学でなにを学ぶか』岩波ジュニア新書、1981年。

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今日明日はセンター試験です。

月並みですが、受験生の皆様がんばってください。

さて昨日。
博士論文の提出手続きの確認のため、大学院でお世話になった立教大学の池袋キャンパスへ1年ぶりぐらいでしょうか……行って来ました。

新宿、四谷、有楽町……このあたりは比較的よく利用しますが、後期課程満期退学後、池袋へ出るのは、サンシャイン水族館と夏のウルトラマンフェスティバルぐらいなものですから、西口関係……自分が通っていたときと、大学周辺の雰囲気が少しがかわっていたことに驚きました。

よく利用していた喫茶店がヘアサロンに生まれ変わり、空き地には複合ビルが建設中。大学の方も、在学中に竣工していた工事が完成したのか、すこしこざっぱりとした様子です。

窓口で詳細を確認すると、「論文博士の場合は、特別な手続きはありません。期日までに関係書類と一緒に提出するだけです」とのことだそうで……あっけなく5分にて終了。教務部で学位規則の書類だけもらい、お世話になった先生の研究室にたちよると授業中なのでしょう……不在とのことで、ぶらりと事業部(一般の大学で言うところの大学生協)にて本を2-3冊買い求め、缶コーヒーで一服です(もちろん喫煙場所にて)。

ちょうど、後期の最終授業とかレポートの提出とか、試験の準備なのでしょう……キャンパスには比較的大勢の学生がわいわいがやがや……。

「大学の自由な空気」がいや~あ、旨かった。

立教は、「自由の学府」をキャッチコピーにしております。

創立者は、日本聖公会の初代主教・チャニング・ムーア・ウイリアムズ(Channing Moore Williams,1827-1910)で、築地に拓いた小さな塾が出発点となっております。
創立当初から“キリスト教に基づく教育”を建学の精神として謳い、チャペルも大学構内にありますし、静謐とした雰囲気が厳然として存在しております。
しかし不思議なことに「キリスト教のために」とか「キリスト教へどうぞ」という雰囲気が全くありません。

ウィリアムズの言葉に「道を伝えて己を伝えず」という言葉があります。
見せかけや名声のための善行を嫌い信仰者としての道を貫いたウィリアムズの歩みの影響からでしょうか……、キリスト教主義であったとしても、そこには「強制」とか「強要」を感じたことは一度もありませんでした。

もちろん、自分自身の専門がキリスト教学になりますので、授業ではガチガチにそうしたものを扱いますが、それでも、やはり学問という立場ですから、信仰や立場の違いは逆に、差異の賞賛のよい見本ではなかったか……思い起こすとそうした空気をかいでいたような気がします。

主体的な信仰の問題を判断するのは当人の問題であって、そこには強要とか強制はなく、それが「自由な学府」としてのカラー、スタイルの淵源になっているのかな……などと煙草を燻らせながら、若い学生たちのただ中で感じた宇治家参去です。

特定の信仰に基づくなどと聞くと、何か束縛とか強制を感じる節がなくはないのですが、そもそもキリスト教をはじめとする世界宗教の場合、むしろ、人間をあらゆる束縛から解放して、自由に真理を追い求めることのできる場所への誘いがその原初の姿であるとするならば、そこで求められるのは、合意に基づかない強制とか束縛という在り方ではなく、むしろ、真理への畏敬の念であり、真理探究への謙虚な姿勢なのでしょう。

そうした雰囲気が「自由の学府」と評される立教にはとうとうと受け継がれた伝統であり、カラーなのだと思います。

さて、大学のカラー。
立教では都合9年間在学しましたが、その前に慶応で学部生活を、これまた都合7年在学しましたが、違う大学へ移ってから、その特色、雰囲気の違いを実感したものです。慶応の場合、スマートと称されるにように、いい意味で「要領がよい」学生が多いのですが、立教の場合、「もっと要領よくやっちゃっていいんでねえの?」などと思う「まじめな」学生が多かったような気がします。もちろん、在学は大学院だけで、しかも、組織神学という極めて異色な場所でしたが、そのあたりは、学生の気風・気質の違いとして感じたものです。

大学で教鞭をとるようになってから、全般的に思うのは、特にゆとり教育以降かもしれませんが、マスとしての大学生と呼ばれる集団に対しては、その「まじめさ」(悪くいえば飼い慣らされている?)を感じるわけですが、そうした抽象化された立場から、もっと生々しい現実の名前をもった学生ひとりひとりと向かい合ってみると、実は、彼ら、彼女らの所属する大学のカラーっていうものは……一昔まえに比べると隅谷が指摘している通り薄くなりつつあるのでしょうが……それでもなお厳然として、カラーを感じてしまうのであるとすれば、建学の精神とか、どういう立場で学生と向かい合っていくのか……という大学の根本原理というものは大切なのかも知れません。

で……。最後に、池袋に行くといつも学生時代から利用しているパブがあります。
名前は失念しましたが、JRの構内に、イギリス風のビアパブがありまして、そこで飲む「バス・ペール・エール」が実にうまい。

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