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根拠のある楽天的、積極的人生観 師匠の必要性 笠置そば

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 前段に於てはからずも恩師故佐々政一先生のことに触れたが、私が先生の薫陶を受けたのは高等学校に入校した当時、僅々一年余りの事である。国語作文の先生で、極めて熱心親切な人であつた。此点に於て得る所素(もと)より少からずあつたが、就中(なかんずく)私の感謝して措かざる点は、作文を二度も三度も書き直させられた事である。たしか一年生の時であつたと思ふ。教科書の外に第一学期に於て鴨長明の『方丈記』を自修せしめられ、それから「方丈記を読む」と云ふ課題で文章を作らしめられたのである。当時私はまだ信者ではなかつたけれども、基督教の楽天的な積極的な人生観にかぶれて居つたから、『方丈記』の全文にも劣らぬ程の長い論文を草して、自分丈けの考では痛快に長明の所説を反駁した積りであつた。佐々先生も或点に於ては楽天的、又積極的の人であつたから、私の態度に素より反対ではなかつた。けれども先生は長明の論拠と私の駁論の根拠とを極めて精密に対照して詳細の批評を朱書せられ、議論としてはまだまだ重大なる欠陥があると指摘せられた。而して最後に先生は、こんな不精密な不徹底な論拠で長明と戦はうとするのはこの至りである。本当に君が其主張に忠実ならんとするなら、今一度よく考へて書きなほせと云ふ批評で、且又口づから今一度書きなほせと命ぜられた。そこで初めて成る程議論をするには余程精密に思想を練らねばならないナと大いに啓発されて、更に一生懸命勉強して前とは全然面目を改めたつもりの新論文を先生に呈出した。所が先生は之れをも極めて親切叮寧(ていねい)に対照批評せられ、特に此の二度目の論文では私の文章の論理上の欠陥を極めて痛烈に指摘せられた。而して又之れでも成つてゐないから、今一度書き直せとの注意を与へられた。そこで私は又再び多大の啓発を得て今一層奮励して第三の論文を書いた。之れも亦先生は極めて精密に通読されて極めて細い朱書の批評をせられた。けれども大体に於て前よりも余程満足のやうであつたが、最後の批評にこんな文字があつた。
 「之れで君の論拠はよくわかつた。しかし長明は一方の極端に立つて自分の人生観を歌ひ、君は又他の極端に立つて君の人生観を歌つて居るのだ。まだ議論にはなつてゐない。本当に論ずるならば君はもつと深く突込んで長明の思想を研究し給へ。さうして又もツと精密に君自身の思想を整え給へ。双方銘々自分の立場を歌つて居るのでは、傍観者は下手な君の方よりも遙かに文章の巧い長明の方に団扇を上げるであらう。」
    --吉野作造「自己のために弁ず(3)」、『新人』一九一八年三月。

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博士論文作成上に必要な資料調査のために、1月末に宮城県の吉野作造記念館(宮城県大崎市)に行ってきましたが、その調査報告と内容の論文への落とし込み・反映の打ち合わせのため、昨日は、指導教官の鈴木先生の仕事場へおじゃまし、2時間弱、種々ご指導を受けてきました。

吉野作造(1878-1933)の人生観乃至人間観は、「キリスト教に基づく楽天的な人生観」(竹田清子)などと評価があり、ほぼほぼそれが定説となっております。またうえの文章の中で散見されるように「当時私はまだ信者ではなかつたけれども、基督教の楽天的な積極的な人生観にかぶれて居つた」などと本人も書き記しているとおり、そうした傾向が顕著です。

それに加え、信仰の師である海老名弾正(1856-1937)の影響から「すべての人間は神の子である」(神子観)という信仰を大切にし、「すべての人間は神の子」であるならば「救われないはずがない」との信念を抱き、それを土台に「民本主義」という政治理論が形成するという論理です。

すっきりした構造です。

しかし、「キリスト教」と「楽天的」という言葉は、ある側面から振り返ってみるならば、水と油のような関係でもあり、「果たして……」という感覚を抱くのも事実です。

それが、キリスト教における「罪」(原罪)の問題です。

確かに、信仰の師である海老名弾正にしても、吉野作造自身に関しても「罪」の意識はほとんど省みられておりません。例えば海老名と対照的な人物に福音主義の橋頭堡を守ったとされる植村正久(1858-1925)などは「罪」の問題を真摯に受けとめることによって「神人隔絶」を強調し、その「隔絶」があるからこそ「信仰」が必要であり、「信仰」によって「救い」が完成されるという論理をとりますし、罪の問題に関しては内村鑑三(1861-1930)も言葉と論理はまた違いますが、同様に看過できない大きな問題としてとらえれております。

それに比べると、海老名弾正、吉野作造においては、造物主と被造物という意味では、確かに神と人間の存在における断絶は「踏まえられておりますが」、断絶とか罪を強調するよりも、「救済の可能性」を強調する側面が強く、その思想傾向性から「楽天的」と評される結果になったのがその消息なんだろうと思います。

罪とか断絶の問題があまり語られないのは事実です。
しかし、どこかでその「楽天的」という傾向は、根無し草の「脳天気」という意味での「楽天的」とは異なる側面も有しております。それが罪意識は希薄であったとしても「キリスト教信仰」を欠いては、その「楽天的」「積極性」は完成されないという信念なのだろうと思います。

その意味では、吉野作造の「楽天的」という言葉は、日本における仏性論と比較した場合、例えば、天台の本学思想系の「楽天的」という言葉と似ては非なるものなのでしょう。中古天台思想においては、万人に仏性が内在するという議論を前提に、仏性という「素晴らしい種子」がハナから内在しているのであれば、仏性を湧現させる「修行」(乃至信仰)は必要ないとの主張が出てきます。そうした何の介在も無い意味での「楽天的」を脳天気とするならば、吉野作造の楽天的はまったく異なった「楽天的」なのでしょう。

それが「キリスト教信仰によって結ばれる」という必要不可欠な介在であり、仏教的言説で言うならば「仏性を湧現させる・磨く修行」の必要性ということなのでしょう。

確かに吉野作造は「楽天的」「積極的」に「人間の善性」が無限向上する「可能性」を説いて止みませんし、「人間には善性(神の子)」が内在するという論拠をたよりに、入れ物やシステムがどうであれ、人間は和楽共和の世界を形成できると説きつづけます。

しかし、その根底には、根拠のない楽天的な脳天気な立場からの発想というよりも、「信仰」によって「人間」は「陶冶」され、お互いに手を取り合える存在であるという「信仰」があったからなのだろうと思います。

その意味では、吉野の人間観というのは、「楽天的」と片づけてしまうには、齟齬が多く、今後どのように評価・表現していけばよいのか悩むところです。

そして、罪の問題が稀薄であるからといって、世俗外禁欲が全く欠如しているという節もないので、そのあたりももう少し踏み込んでいく必要があるかも知れません。

ちょうどうえの文章では、吉野作造は旧制高校時代の思い出を語っておりますが、そこでは「当時私はまだ信者ではなかつたけれども、基督教の楽天的な積極的な人生観にかぶれて居つた」と吐露しておりますが、仏教的無常観を説いた鴨長明の話題をめぐって作文を何度も書き直しさせられたエピソードが語られております。

完全な世俗外禁欲を励行したわけではありませんがその境界線上を歩み続けた鴨長明との出会いにも、吉野の世俗外禁欲形成に伴うヒントがあるかもしれません。自叙伝を残した人物は数多く存在しますが、吉野の場合、まとまった形の自叙伝は本人自身、一冊も残しておりませんが、それもある意味では世俗外禁欲の結果なのかもしれません。

……などと談笑しつつ、やはり、学問の師・鈴木範久先生は偉大でありました。

どこにそれだけの大きな引き出しと知識、そして今なお増しつつある探求心。
世界中から鈴木先生を求めて訪れる研究者が多いのも理解できますが、そうした大先生のもとで学べる自分自身の幸福と責任も自覚するわけで、いつもお会いするたびに、自分のちっぽけさと学問探究者としての自分自身の未熟さを自覚する毎日です。

その意味では、世俗内の学問世界になりますが「師匠」とはありがたいものです。吉野作造も上の文章では、佐々先生(佐々政一〔醒雪〕,1872-1917)の学恩に対する深謝を述べておりますが、まさにそのとおりで、人間は人間によってしか磨かれませんし、それによって学問も人間性も深めていくことが可能なのだと思います。

ともすれば、一般的な世間では、師匠をもつことに対して「自分自身の個性がなくなってしまうから、いやだ~」という風潮が顕著に見られますが、実はその逆で師匠をもつことによって自分自身が開眼開花するのではないだろうか……鈴木先生との交流・薫陶のなかでいつもそのことを思います。

どの道、どの世界においても、模範とする師匠がいない人生こそ「自分自身の個性がなくなってしまう」のだろうとつくづく実感するわけですが……。

で……。
この博論指導へ伺うといつもその前後に立ち寄るのが「笠置そば」です。

都内ですと、西荻窪にもあったかと思いますが、経由路線の都合上、西武線の本川越で降りて、東武東上線の川越市駅まで歩いていくのですが(直結じゃないので)、その途上にあるのが、この「笠置そば」です。

フランチャイズのいわゆる「駅そば」なんですが、単なる「駅そば」ではございません。

ふつうのイメージですと、あらかじめ湯煎されたやつを、もう一度湯煎して戻し、汁を入れてさっと出すというあり方ですが、コチラでは、あらかじめ湯煎の取り置きをせず、最初から茹でてくださり、一旦冷水で締めぬめりをおとし、そして再度湯煎して出してくれ、種物も取り置きの揚げ物ではなく、一枚一枚揚げてくださったのをのせてくれます。

今回は、ゴボウ天とちくわ天をセレクト。揚げたてですから、天から溢れる汁まで熱く濃厚です。

毎度よるわけですが、叮寧に出された蕎麦は格別で、毎度巡礼せざるを得ません。

ご近所の方はどうぞ。

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