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呪詛から対話へ、対話から共存へ、共存から協働へ

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 キリスト教とマルクス主義の対話と、その後に明らかになっていった出来事の数々を見て、わたしは次のことを悟った。すなわち、対話においては、相手の長所を真剣に受け止めるべきであって、欠点や過ちを次々とあげつらうことは慎むべきだ、ということである。対話は、参加者のアイデンティティを失わせるものではなく、むしろそれをより深く理解せしめるものである。真摯な対話を続けるならば、ひとはロマン的な空想で自分を描き出すことを止め、他者の批判的な目で自己を見るようになる。真剣な対話においては、他者の批判的な検証に供することのできないようなある高次の権威に訴えることで困難な問題を回避することはよろしくない、ということも期待するに至った。より重要なことに、対話そのものの性格はわれわれの主題ではなかった。われわれは真剣にキリスト教とマルクス主義について討議を重ねたのであって、対話のための対話をしたのではない。後になってようやく明らかになったことであるが、問題が起きるのは心を開いたキリスト教徒とマルクス主義者の間ではなく、対話に参加していないマルクス主義者とキリスト教徒の間である。

(中略)

 ヨーロッパにおけるキリスト教とマルクス主義の対話のカイロスからして、以上の経験はわれわれにいくつかの教訓を与えてくれる。

 ●生命を脅かすような対立が現存し、その解決が対話によって得られるという希望があること。われわれの会話の中でいみじくも一人が言った。「もしいまわれわれが話し合わなかったら、やがてわれわれはお互いを撃ちはじめるだろう」。
 ●参加者は、自己の信仰や世界観の文脈の内部から対話へと向かわなければならない。真理問題をないがしろにしたままの対話は重要性をもち得ない。
 ●参加者はみな、自己と対話者とが代弁している人々のことを忘れてはならない。もし参加者が自己のよって来たるところからあまりに乖離し、その共同体の代弁者と見なされなくなった場合には、その参加者は自己の共同体へと帰って報告をおこなう時に敬意をもって迎えられず、そのためやがて孤立し、個人的な意見だけを語るようになる。
 ●対話は、「対話のために」という名目だけで続けられてはならない。その動機は、生命を脅かすような深刻な状況を変革するため、つまり実践的な結果をもたらすためでなければならない。ガロディは、この動向を「呪詛から対話へ、対話から共存へ、共存から協働へ」と表現した。
    --ユルゲン・モルトマン(森本あんり訳)「多元主義神学は宗教間対話に有効か」、G・デコスタ編(森本あんり訳)『キリスト教は他宗教をどう考えるか ポスト多元主義の宗教と神学』教文館、1997年。

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ここ数十年来、ポストモダニズムや脱構築の一環として、キリスト教批判乃至は宗教批判--宗教哲学・宗教の形而上学的性格に対する批判--が盛んに議論され話題を集めております。

確かに、従来の「キリスト教」に対する見直しが議論され、そしてキリスト教のみならず従来の「諸宗教」そのもののあり方が見直しを迫られ、真摯に議論される状況は歓迎されてしかるべきであります。しかしながら、そうした「批判」そのものを歓迎する日本の人々が、自己自身の信念、宗教伝統にそのあり方を振り向けないのであれば、それはいささか残念なことかもしれません。

歴史的な原因はもちろん存在しますが、宗教なるものに対して伝統的に「淡泊」な精神的態度がマジョリティな日本においては、その「淡泊」な態度そのものが多元的価値の現れであると説く論者も多く、そうした精神風土を「絶対」と「絶対」の信念対立を回避する「寛容さ」や「智恵」と見てとる風潮が今なお強く存在します。

しかし、その中身を見てみると、果たして、「多元的」で「寛容」な精神構造なのかどうか、疑わしく感じるのが実情で、そこには相も変わらぬ日本人の自己礼賛思考が裏返しに表現されているように感じられて他なりません。

「宗教」の内実を深く探究する方向を回避しながら、議論として「宗教」そのものを俎上に載せないのがその実情でしょう。

「多元的」で「寛容」なあり方という看板は掲げているもの、実は、真面目な議論から宗教そのものを取り上げる姿勢を排除しているだけであって、そこには、「一元的」で「非寛容」な精神しかのこされていないように思えて他なりませんし、それは単なる「無関心」が現れただけなのでしょう。

そして非寛容の事例をたどるならば、戦国末期の切支丹弾圧、そして近くは、先の大戦下における一元的価値観・信念系への強制的な統合のあり方をひもとくまでもなく、枚挙にいとまがないというのはまさにこのことでしょう。

かつてマザー・テレサ(Mother Teresa,1910-1997)は、「愛」の反対概念は何かと問うた場合、それは「無関心」であると答えたことがありますが、コンテンツそのものに対する深い探究を退け、そのもの自体を議論すべくもない(=個人の内面への極度の還元主義)として「無関心」を装うことが何か知的であると思うそうしたあり方とは、まさに「愛」とは対極なのでしょう。

挙げ句の果ては、宗教に対して「無関心」を決め込む精神構造の裏返しとしての、まさに安易で安直な「精神世界ブーム」の過熱という現象を見てみますと、マア「なんだかな」などと思うことしばしばです(マア、制度宗教自体が力を失い、魅力を提示できなくなってきたという側面も現実に存在し、それを加速させているという状況も承知ですけれども)。

さて……例のごとく話が脱線しましたが、

宗教多元主義とはもと、キリスト教の絶対性に対する主張への深い反省と、そして諸宗教とキリスト教の関係をめぐって定義された議論です。たしかに歴史を振り返ってみると、実例を挙げるまでもなく、キリスト教のもつ暴力性に根ざす批判として定義された疑義でありますが、こうした疑義はひとりキリスト教のみに限定される問題ではありません。

信仰とは、客観的な1番があって、これはだいたい2番目だな、そしてこれは5番目ぐらいだなと査定できる対象ではありません。当事者にとってはまさにそれは「代換不可能」な「1番」であり、そこには2番もなければ、3番もありません。

要は信仰とは信仰者にとって「絶対」という側面を有します。
当事者にとってそれが「絶対である」という感情(シュライエルマッハー)を抜きにしては信仰なんて成立することは不可能なのです。

しかしそれと同じように、他の信仰をもっている人間も自己自身の信仰を「絶対」だと信じております。
※(くどい蛇足の注)本朝では、どうやら「絶対」と「主張する」ことが浅はかであり、お馬鹿であると見なす風潮がありますが、それは、「絶対」を浅はかとし、お馬鹿と見なすフリをしながら、結局は、他者の絶対の寛容しないという「絶対」の一方的主張なのですが……。

またしても、例のごとく話が脱線しましたが戻しましょう。

……よって、すなわち(ゴホッゴホッ)、
だからこそ、その「絶対」と「絶対」を向き合わせる構造、視座、対話の場が必要になってくる--宗教多元主義の議論とはそうした素地から誕生してきた議論です。

そうした芽吹きがひとつの大きな潮流となったのは、やはりなんといっても第二バチカン公会議の成果であることを言うまでもありません。

1960年代以降、そうした諸宗教間の対話が現実のものとなり、数々の成果が生み出され、真摯な自己理解と他者理解の美しい見本がつぎつぎと登場し、方法論も様々なかたちで整備されてきました。

しかしながら、90年代中盤ぐらいからでしょうか……そうした議論そのものが、退潮傾向になってきているフシがあり、開かれた態度から自閉的な精神空間の重々しさが支配的になってきているのも実情です。

そしてそうした傾向を加速化させる生活情勢が追い風となって、ますます自派のぬくもりのなかに沈潜していく傾向が顕著になってきているのですが、それに関しても(感情としてはわからなくもないのですが)、「なんだかな」というところで……。

冒頭で引用したのは、「希望の神学」(Theologie der Hoffnung)を説くユルゲン・モルトマン(Jürgen Moltmann,1926-)の「宗教間対話」に関する論説の一節です。

「絶対」と主張する信念系の対立に関して、日本的アプローチとしては、そもそも「絶対」と主張すること自体を否定する方向へと傾きがちですが、そのことが「絶対」と主張することを「絶対」に「否定する」というパラドクスに陥りがちなのが現実です。しかし実は大切なのは、実は「絶対」の問題とは要はだれにむけて発信していくのかというところに帰着するのではないだろうかということなのでしょう。

そもそも「絶対」の主張は自己自身に向けるものであって、他者に「絶対」と主張しても本来無意味なはずなのですが、そこがこの数千年来の歴史のなかで鳥違われてしまったのかも知れません。

異なる「絶対」の主張に対して、どのように向かい合っていくのか……。

モルトマンが体験的に--それはプラハの春の前後、マルクス主義者との対話を通して--みてとった「対話のカイロス」はひとつの参考になるのかも知れません。

「もしいまわれわれが話し合わなかったら、やがてわれわれはお互いを撃ちはじめるだろう」

そして

「呪詛から対話へ、対話から共存へ、共存から協働へ」

異なる「絶対」と向かい合うことは決して心地よい対話ではありません。
しかしその向かいあい、そして語らいを抜きにしては、おのれ自身の「絶対」なるものも本物の「絶対」にはならないのだろう……などと思う宇治家参去です。

ホントはモチっと折り目正しく議論したかったナイーヴな論点なのですが、チト酒も回り始めておりましたで、また次回?ということで……。

で……最後に蛇足ついでにもひとつ。

モルトマンの次の言葉もなかなかいいんですよね!

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《とりなしの祈り》

 主よ、私たちは、自分自身のためにではなく、

 暗やみの中で苦しみ悩む民衆のために、願います。

 私たちは、この地上の収容所で囚われた者、国外退去させられた者、

 流罪者、発言を封じられている者のために、祈ります。

 どうか、彼らの苦悩の中にいてください、

 苦境の中にいる彼らに耐える心を与えてください。

 そして、彼らを自由へと導いて下さい。

 私たちは、私たちのもとにある、病気の人、障害のある子供、

 いまわの際の人、悲しんでいる人々のために、あなたにお願いいたします。

 孤独の中にある彼らと共にいて下さい。

 彼らに慰めを与えて下さい、

 そして彼らに、あなたの満ちあふれるいのちを、与えて下さい。

 私たちは、見捨てられたと思い迷っている人々、憤っている人々のために祈ります。

 その人生は、空虚で無意味となり、愛に欠け、そして思いやりもなくなったのです。

 あなたの熱心のゆえに、彼らを離れさせないで下さい。

 彼らに、新しい確かな霊を、与えて下さい。

 私たちは、あなたの前で静かに、彼らに代わって、彼らの名前を呼びます。

 なぜなら、私たちは、主にある兄弟、姉妹だからであります。

 主よ、私たちの願いをうけ、彼らの祈りに、聞いて下さい。

 あなたの義をもたらし、不義の権力を消滅させて下さい。

 あなたの平和をもたらし、軍備と戦争と報復を、絶滅させて下さい。

 あなたの光をもたらし、私たちの中にあり、また周囲にある、混迷を消し去って下さい。

 しかし、神よ、私たちの主なるイエス・キリストを通して、

 私たちに勝利をもたらして下さったことを、感謝いたします。

    --J・モルトマン(田村信吾、蓮見和男訳)『無力の力強さ』新教出版社、1998年。

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