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精神の風が、粘土の上を吹いてこそ、はじめて人間は創られる

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 ぼくは、あるひと組の夫婦の前に腰をおろした。その男と女のあいだには、子供はどうやらわずかに凹(くぼ)みを作って、眠っていた。子供は、眠りながら寝返りを打った、するとその顔が、燈火の前に浮び出た。おお! なんと愛すべき顔だろう! この夫婦から、一種黄金の果実が生れ出たのだった。この鈍重な二人の者から、美と魅力のこの傑作が、生れ出たのだった。ぼくは、このつややかな顔、この愛すべき、とがらせた唇のやさしい表情の上にうつむいた。そうして、ひとり言をもらした、これこそ音楽家の顔だ、これこそ少年モーツァルトだ、これこそみごとな生命の約束だと。伝説の中の小公子たちも、この少年となんら変るところはなかった、保護され、いつくしまれ、教育されたなら、この少年になりえないというものは何一つないはずだ! 花園に、新しい薔薇の変種ができると、園丁たちは大騒ぎする。人はその薔薇を別々に取り分け、人はその薔薇を培養し、人はその薔薇を大事にする。ただ人間のためには、園丁がない。少年モーツァルトも、他の子供たちと同じく、金属打抜き機にかけられる運命だ。モーツァルトが、キャバレーの腐敗の中にあって、腐れはてた音楽を、自分の最大の喜びとするようになるのだ。せっかくのモーツァルトも、これで万事休すだ。
 ぼくは、自分の車室へ戻ってきた。ぼくは、ひとり言をもらした。彼らは、すこしも自分たちの運命に悩んでいはしない。いまぼくを悩ますのは、慈悲心ではない。永久にたえず破れつづける傷口のために悲しもうというものでもない。その傷口をもつ者は感じないのだ。この場合、そこなわれる者、傷つく者は、個人ではなく、人類とでもいうような、何者かだ。ぼくは憐憫を信じない。いまぼくを苦しめるのは、園丁の見地だ。いまぼくを苦しめるのは、けっして貧困ではない。貧困の中になら、要するに、人間は懶惰(らんだ)の中と同じように、落ち着けるものなのだ。近東人の中には、幾代も汚垢(おこう)の中に住んで、快としている者さえある。ぼくがいま悩んでいるのは、スープを施しても治すことのできないある何ものかだ。ぼくを悩ますのは、その凸でも、凹でも、醜さでもない。言おうなら、それは、これらの人々の各自の中にある虐殺されたモーツァルトだ。
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 精神の風が、粘土の上を吹いてこそ、はじめて人間は創られる。
    --サン=テグジュペリ(堀口大學訳)『人間の大地』新潮文庫、平成十年。

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二月ももう終わろうとしているわけですが、今月はめずらしく哲学系の著作をひもとくことが殆どありませんでした。再度読み直すべき文学作品と専門とするキリスト教関係の著作のみで……今月が終わろうとすることに唖然とする宇治家参去です。

学問の仕事は二月初頭に短大の成績を返却し、一般入学試験が終了したので、ひととおり終了し、あとは、所属する研究所の年度末の学術大会と卒業式のみで、論文を組み立て直しを、市井の仕事の合間に行うという状況で……、業績としては残せるものが少なかったひと月なのですが、その根底を支える仕込みという上ではひとつ前進したのか……ということにしておきましょう。

ただ今月は公私ともにアリエナイ状況が頻発し……本日もマアそうで、何度も繰り返しますが、世の中のサラリーマンの方々には脱帽する次第で……、そして、そのなかで、二足のわらじのような形で学問を探究する人々には最敬礼というわけですが、裏拳、正拳、蹴拳で粉々にされてしまった段ボール箱たち、ごめんなさいで、そしてありがとう。

……ということはさておき。
年末に博士論文のエントリー資格でトラブり、1月に調査旅行を終え、2月に、論文の組み立て直しを指導教官の鈴木先生からうけるなかで、ようやくですが、自分が何をやりたいのか少し形になってきたような気がします。

重箱の隅をつつくようなかたちでの「作業」としての「研究」は、まがいもなく組織神学というジャンルになる「手作業」になるわけですが、その「手作業」をするなかで、何をやろうとしているのかひとつ明確になってきのかな……というところです。

ひとつは、やはり、昨年来より大きな自分自身のテーマとなった「“人間”とは何か」という大問題です。これはドイツを代表する哲学者カント(Immanuel Kant,1724-1804)が哲学の目的とは何かに関して『純粋理性批判』でまとめたところなんですが、そもそも人間が何か「学問」なるもに向き合おうとする契機もここに存在します。すなわち「自分とは何か」「そしてその限界とは何か」そしてその限界と相即的に浮かび上がる「超越」とは何か……という問題ですが、そのことを、ひとつのイデオロギーとして固定化することを酒ながら……をゐ!変換ミス……避けながら、恐らく死ぬまででしょう……たえず探究していかないといけないな……という部分でしょう。

そしてもうひとつはそれと切実に関わってくる論点です。
これに関してもこれまでのエントリーで何度となく触れている部分ですが、異なる存在とどのように向き合っていくのか、どのようにお互いの差異を尊重しながら認め合うことができるのかという探究です。

少し踏み込んで表現するならば……異なる他者の多様な尊厳性を確保しつつ、どのように共同して存在できるのか……それを抹殺せずに共存・協働できる方向はあるのか……という探究です。酒飲みながら……といういつもの情況ですから巧く言えないのですが、ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe,1749-1832)の言葉を借りると次の通りになるでしょう。即ち……

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個々の人間、個々の民族の特性をそのまま認めながらも、真に誉むべきものは全人類に属することによってこそきわだつのだという確信を失わぬようにしてこそ、真に普遍的な寛容の精神が最も確実に得られる。
    --ゲーテ(登張正實編訳)「文学論・芸術論」、『世界の名著38 ヘルダー・ゲーテ』中央公論社、1979年。

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みんな違っててアタリマエなのですが、ひとは自分と違う存在を目の当たりにすると驚くというよりも「恐怖」するのが現実です。しかしそれは立場を入れ替えてみれば同じことで、自分がそう思っているように相手もそう思っているわけで、できれば、その違いを何か一定の価値観に導くという方向性ではなく、お互いにその違いを恐怖するのではなく讃え合える方向はないのか……模索したいところです。
ただしここでもじゅうようになってくるのは昨日の魯迅(Lu Xun,1881-1936)のところで紹介しましたが……

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誠実な人がよく口にする公理についてみても、それは今日の中国で、けっして善人を助けることにならず、かえって悪人を保護する結果になる。なぜなら、悪人が志を得て、善人を虐待するときは、たとい公理を叫ぶ人があろうとも、彼は絶対に耳に入れない。叫びはただ叫びにおわって、善人は依然として苦しめられる。ところが、なにかの拍子に善人が頭をもたげた場合には、悪人は本来なら水に落ちなければならぬのだが、そのとき、誠実な公理論者は「報復するな」とか「仁恕」とか「悪をもって悪に抗する勿れ」とか……をわめき出す。すると、この時ばかりは単なる叫びでなくて、実際の効果があらわれる。善人は、なるほどそうだと思い、そのため悪人は救われる。だが救われた後は、してやったりと思うだけで、悔悟などするものでない。のみならず、兎のように三つも穴を準備してあるし、人に取り入ることも得意だから、間もなく勢力を盛り返して、前と同様に悪事をはじめる。そのときになって公理論者はもちろん再び大声疾呼するであろうが、今度は耳を貸すものでない。
    --魯迅(竹内好訳)「『フェアプレイ』はまだ早い」、竹内好編訳『魯迅評論集』岩波文庫、1981年。

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この点だけはわすれずに念頭においてほくしかないのだろうと思います。そして自分が傷をつけるよりも、つけられるなかで、他者から学んでいくという方向性は堅持したいものです。

またそうしたかたちで、自分自身の生を育んでくれた両親に感謝が堪えないわけですが、……、なんか少し耶蘇臭いかな?。


冒頭の一節へ。
アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ(Antoine de Saint-Exupéry,1900-1944)の名著『人間の大地』(Terre des Hommes,1939)の末尾からです。

サン=テグジュペリといえば、なんといっても「大切なものはね目には見えないんだ」との一節で有名な『星の王子さま』(Le Petit Prince,1943)が人口に膾炙されているわけですが、そうした『星の王子さま』へ至る根底の議論がなされているのが『人間の大地』とか『夜間飛行』(Vol de Nuit,1931)といった、『星の王子さま』以前の大作です。

周知の通り、サン=テグジュペリは“飛行機乗り”として有名で、そうした飛行士体験がもとになって、『夜間飛行』、『人間の大地』、『星の王子さま』が著されております。特に後者二冊は、自身の墜落~生還経験が大きく影響しており、人間とは何か、そして自然と人間、そして運命という論点が色濃く語れた一冊なのですが、宇治家参去としては『星の王子さま』よりも『人間の大地』です。

民間航空会社へ勤務時代のリビア砂漠での遭難、そしてサハラ砂漠での遭難のなかで、「人間らしい」とは何かを肺腑の奥底から論じたわけでそこに大きな魅力を感じてしまいます。

「人間とは何か」という論題と同じく「人間らしいとは何か」を論じてしまうと、その論点からはずれた人間はまさに「人間らしい人間ではない」という軋轢を不可避的に生みだしてしまうわけですが、サン=テグジュペリの文章を読んでおりますと、そうした嫌味とけれんくささをまったく感じません。

「世の中は腐っている!」と青臭く啖呵することは簡単です。
そしてそうしたひとびとを「おめえら方法論的に間違っているよ」って知識人風にうそぶくことも簡単です。

しかし……そうした議論を踏まえた上で、あえてそこに踏み込んでいくのがサン=テグジュペリの議論なのかもしれません。

池波正太郎(1923-1990)の長谷川平蔵@『鬼平犯科帳』に言えば、

「そんなことは百も承知だ……」

……というところでしょうか。

だから宇治家参去は、次の言葉に涙します。

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ぼくは憐憫を信じない。いまぼくを苦しめるのは、園丁の見地だ。いまぼくを苦しめるのは、けっして貧困ではない。貧困の中になら、要するに、人間は懶惰(らんだ)の中と同じように、落ち着けるものなのだ。近東人の中には、幾代も汚垢(おこう)の中に住んで、快としている者さえある。ぼくがいま悩んでいるのは、スープを施しても治すことのできないある何ものかだ。ぼくを悩ますのは、その凸でも、凹でも、醜さでもない。言おうなら、それは、これらの人々の各自の中にある虐殺されたモーツァルトだ。
    --サン=テグジュペリ、前掲書。

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人間のためには、園丁がない。

 精神の風が、粘土の上を吹いてこそ、はじめて人間は創られる。

宇治家参去は、37年前の雪の降る早朝、産声をあげたそうです。
いまようやく、その使命がみえはじめてきたところです。

今日はKOEDOビール(株式会社協同商事 コエドブルワリー)でも飲んで寝ましょうか。

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コメント

はじめまして。
「人間とは何か?」私もまたこの問題に取り組むために、春からまた大学を入り直す者です。
人間はなぜこんなにも苦痛で困難であるにも関わらず、「生きる」という十字架を背負い続けるのでしょうか。
とはいえ、投げ出すことも目を背けることもなく人生の不条理を注視し続ける。そして全てを肯定する。そんな哲学を模索中です。
いつかアカデミックな場所でお話を伺いたい。
そんなことを思いながら、ブログをようちぇきらしていきます。


投稿: うへの | 2009年2月27日 (金) 21時10分


うへのさんゑ

はじまして、マモニズムの支配する市場社会の荒野でたたずむ宇治家参去です。
コメントありがとうございます。

「人間とは何か?」……この難問の探究のために、再度大學へはいりなおすとのこと、がんばってください。

ポストモダニズムの業界では、マア真面目に「人間とは何か」などと探究しようとすると、頭オカシイんじゃねえの?っていわれそうなのですが、それでもなお、ご指摘の通り、人間は、「人間はなぜこんなにも苦痛で困難であるにも関わらず、「生きる」という十字架を背負い続ける」ところがあり、永遠に答えが出せない……答えを出してしまうとその時点でそれがドグマと化し、現実の人間を分断してしまうわけですが……といですが挑戦せざるを得ない、そしてそれをたえず更新し続けていかなければならない難問なのだろうと思います。

ともどもに刺激与え合いつつ、探究できればなと思う次第です。

>いつかアカデミックな場所でお話を伺いたい。
はい、はやくアカデミック1本で食べていけることができれば幸いなのですが、あいにく情けない話ですが、市井の世界にどっぷりつかりながら、やっておりまして(苦笑)、しかしながら、それが、マア、照射してくれるのかなと思う次第です。

>そんなことを思いながら、ブログをようちぇきらしていきます。
ありがとうございます。
たいしたことは発信しておりませんが、今後ともどうぞ宜しくお願いします。

投稿: 宇治家 参去 | 2009年2月28日 (土) 00時57分

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