一切を生産に差向けられたものとなす産業主義的概念と可成に異つた価値階列
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文化の「人間中心主義的」(anthropocentrique)概念に対して、キリスト教的概念は、真実に人間的な且つ「人間主義的」(humaniste)概念として対立するが、私はこの語を使用しつゝ、その語の語源的意味に違はぬ唯一の『人間主義』(humanisme)を考へてゐるのである。それは即ち聖トマス・アクィナスがその実例を示す所のそrであり、キリストの血によって清められたるヒューマニズムであり受肉性の人間主義(humanisme de l'Incarnation)である。
かかるヒューマニズムは本質的な聖階秩序(ヒエラルシー)を尊重し、観想的生を活動的生の上位に置き、観想的生がより直接的に第一『原理者』のその愛(そこにこそ完徳性が存する所の)にむかつて行くことを知つてゐる。それは活動的生が犠牲にされなければならないといふのではなく活動的生はそれが完全者達の許において実現する所の模型(タイプ)に、即ち観想の充溢より発する所の活動にむかつて行かねばならないといふのである。
しかし聖人達の観想を人間的生の頂点におくならば、然らば人間の一切の活動は、而して文明自らはそれに向つて、将に自らの目的として秩序づけられてゐるといふことを意味すべきではないか。聖トマス・アクィナスは(おそらくは幾分の皮肉なしにではなく)然うであるかの如くに思はれるといつた。何となれば肉体的労働や商業は、生活に必要なる事物を身体の為に獲得して、観想の為に要求されたる状態におかれる様にする以外の目的を有しないから。道徳的諸徳と実践的思慮は、観想にとって必要なる情念の静穏と内的平和を獲得する事以外に何の目的があるのか。国民的生活の全支配は、観想に必要なる外的平和を確保する以外の何の目的があるのか--「それらを正にあるべき如くに考察するならば、人間的生活の一切の機能は、真理を観想する人々に奉仕する如くに思はれる」。
正にここに近代世界が持つ所の文明観たる、一切を生産に差向けられたものとなす産業主義的概念と可成に異つた価値階列が存する。人々はここに貨幣の繁殖性の--自然によって規定された条件から逸出する一切のものと同じく制限のなき繁殖性--上に立てられた制度政体からそれ自身出で来たる所の「経済の優位」が何の点において、資本主義にせよマルクス主義的にせよ、唯物論的なる文化の概念が何の点において、教会の共同の師聖トマスの思想と対立的なものであるかを理解する。
--ジャック・マリタン(吉満義彦訳)『宗教と文化』甲鳥書林、昭和十九年。
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詳しくは措きますが、ひさしぶりに市井の職場のまたまた例の如く「アエリナサ」に「怒り心頭」で、『ランボー 怒りの脱出』(Rambo: First Blood Part II )のシルヴェスター・スタローン(Sylvester Gardenzio Stallone,1946-)のように、裏拳にて壁に拳を繰り出そうかと思ったほどですが、繰り出してしまうと、宇治家参去とスタローンではつくりが違いますので、手が悲鳴をあげてしまうということで、ひさしぶりに痛飲でしのぐことで、お茶を濁すという状況です。
金儲けの現場は確かに大変で、このことは世の勤労者がつくづくと実感するところなのでしょう。それでもなお、やはり考えないといけないのは、「制限のなき繁殖性--上に立てられた制度政体からそれ自身出で来たる所の『経済の優位』」と自分自身がどのような関係を結んでいくのか、実に問われているのだろうと思わざる得ない昨今です。
古典的なマルクス主義にせよ、高度に発達した現代資本主義のそれにせよ、「貨幣の繁殖」を「制限のなき繁殖性」を目指して追求していくのは同じなのでしょうが、古典的時代においても、そして現代の時代においても、集散性や効率、そしてシステムと流通に違いはあったとしても、そこに現実に存在する「人間」の問題を欠いてしまった場合、黄金は残ったとしても不毛な砂漠しか残らないのでしょう。
欲望は欲望を生み、その欲望は際限なき欲望を生んでいく。
しかし、その欲望の主体も人間であるし、その欲望を担保する「信頼」を実体化させる根拠も人間なのですが、「百年に一度」の事件を眺めていると、どうも「人間」という視座が見えないようで、そして、現実に、金銭や物品の受け渡しをする最前線で仕事をしていても、そのことが「建前」としては見えるのですが、現実にはまったく「見えてこず」凹んでしまうことの多い毎日です。
警世の預言者・内村鑑三(1861-1930)であったならば、「この、拝金主義者め」と痛罵することも可能でしょうが、現代の人々にはその言葉はなかなか受けとめられないかも知れません。
「あなただけ、お好きに、高潔な生き方を選択してくださいな、私は私で、この拝金街道まっしぐらで結構ですから」というかたちで、「やんわり」と話をクローズされるのがオチでしょう。
しかし、手段が目的に転じてしまうというのは、なにかがちがうんだよなナ~という違和感が残るところで、アリストテレス(Aristotle,384.BC-322.BC)が説いたように、手段-目的の連鎖の集結点は「幸福(善の実現)」にあるはずなのですが、目的が喪失した手段だけがひとりあるきしているようで……、そしてそれに対する有効な言説が不足している、あるいは力をうしなっている……そこに何か不毛さ感じてしまう次第です。
しかし、実はハナから「有効な言説」など存在しないのであって、言えることは、子供に対する説教のような「言い方」、すなわち、「“何のため”という問いかけ」しか実は存在しないのであって、それをどう粘り強く語り続けていくのか、そしてそれをどう自分の生き方として昇華していくのか……それしかないのかもしれません。ただぼんやりとですが。
さて--。
出勤前、所属する研究所より荷物がひとつ。
昨年仕上げ、一月に活字となった論文の「抜刷」(50部)が到着。
例年ことですが、「抜刷」が届くと、「さあ、そろそろ、次のヤツに手をつけないと……」と思うのですが、思うだけで終わってしまうことが殆どですから、本年はすこし「変えてやろう」というわけで、二日酔いの頭で、次年度分の史料を読んでいるところです。
今回は、戦前日本を代表するカトリック思想家・吉満義彦(1904-1945)の議論を参考に、「人間主義批判」を考えてみました。言うまでもありませんが、批判といっても、「人間主義」に対する「アンチ」ではなく、「クリティーク」するという意味であって、現代の思想世界において圧倒的に評判の悪い!「人間主義」(精確には「人間中心主義」の問題)を検討し、どのように、その精神を快復していくのか概観しようと試みたわけですが、ご多分にもれず、予定稿数をオーバーしてしまったので、「その1」ということで区切り、次年度は、マア「その2」というわけです。
世界史の教材を繙くまでもなく、宗教改革、ルネサンスを経て、権威の漆喰をうち破る原動力として「人間主義」の言説が整備されたわけですが、過去の歴史を振り返ってみればわかるとおり、「人間のため」という言い方で「人間」自身が疎外されてきたのは疑いのない事実です。ですから現代思想の世界では、「もうそんな人間にこだわる、人間とは何かを考える必要などないヤ」って気風が顕著です。
しかし、それで済ませるのも、なんだかなあ~という状況で、「貨幣に対する際限なき欲望」のごとく?「“人間とは何か”という答えのない永遠の問いかけ」を際限なく探究する欲望のみは横溢で、そのあたりを博士論文とは別に探究しております。
「その1」では、吉満義彦の近代批判を振り返り、近代の中心に位置する「人間(中心)主義」の説く「人間」なるものが、実は「空虚で空っぽな」“抽象化”された立場のそれにすぎないというところを概観したわけですが、「その2」では、吉満の立場(カトリック神学/ネオトミズム)からの提示された対抗概念〔受肉性の人間主義(humanisme de l'Incarnation)〕を確認できればと考えております。
うえに引用した文献は、吉満の師にあたるフランスのカトリック思想家ジャック・マリタン(Jacques Maritain,1882-1973)の論文を日本語に翻訳して、吉満自身が解説を付けて出版した著作なのですが、発刊が昭和十九(1944)年のことです。
吉満が亡くなる一年前なのですが、まさに「一切を生産に差向けられたものとなす産業主義的概念と可成に異つた価値階列」よろしく「一切を戦争に差向けられたものとなす産業主義的概念と可成に異つた価値階列」をつっぱしていった状況に冷や水を指すような内容なのですけれども、よく出版できたよなっていうところに驚きです。
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