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探求せられる「こと」は人間の間柄に公共的に存する

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 方法の問題において我々がまず顧慮しておかなくてはならないことは、総じて学問すなわち「問うこと」がすでに人間の存在に属することである。元来「学」とは「まねぶこと」「模倣すること」を意味した。すなわちすでに為し得る他の人についてその仕方を習得することである。それは第一に作用、行為であってノエーマ的な知識ではない。第二にそれは他の人との間に行われるのであって孤立人の観照ではない。学が特に知識に関する場合でも、すでにできあがった知識を単に受け取って覚え込むのは学ぶことではない。学ぶのは考え方を習得して自ら考え得るに至ることである。だからこの際ノエーマ的契機を抜き去ってノエーシス的契機にのみ即するならば、学とは人と人との間の面授面受の関係であるとも言い得られる。同様にまた「問う」とは訪(とぶら)いたずねることである。人を訪ねる、人を訪(と)う、というごとき行為的連関において、その人に安否を問うというごときことが行われる。安否を問うのはその人の存在の有りさまを問うのであり、従ってその人を問うことにほかならぬ。このような間柄の表現が問いの根源的な意味である。間柄においては相互の気分が共同の関心事であり、従って相互の間柄そのものが両者の間に置かれるのである。さらに共同の関心は間柄において見いださるるさまざまの道具に向かう。従って道具について何事かが問われる。その「こと」は問う者と問われる者との間にある。従って問いは間柄において共同に存在する。ことの意味を問うに至っても依然として同じである。かく見れば学問も問いも「人間」の行動であって孤立人の観照ではない。学問とは探求的な間柄である。探求せられる「こと」は人間の間柄に公共的に存する。すなわち問いは根本的に「人間の問い」なのである。
    --和辻哲郎『倫理学 (一)』岩波文庫、2007年。

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久し振りに「ぼやいて」みましょうか。
何があったというわけではありませんが、「根拠がないから何をやってもいいわけでもなかろうに」と最近、とみに実感する宇治家参去です。

でわ。

学問の世界においては、対象を正しく「問う」ことによって、その営みを前進させてくることが可能になったわけで、その意味では学問とは、まさに「問い(方)を学ぶ」という意味合いをもっているのだと思います。

倫理学者・和辻哲郎(1889-1960)は、学問とは「問う=訪(とぶら)いたずねること」と大著『倫理学』のなかで指摘しております。

「問う」ことが「訪いたずねること」(人間論的には「安否をとう」)であるとすれば、問いを探究することで、問いに対するアプローチが先鋭的にならないように自戒する必要もあるのではないだろうか……精確には、そしてそのことが実は「孤立人の観照」なのではないだろうか……と、考えることがしばしばあります。

例えば、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いがあります。

しかし、この問いの探究が先鋭化してしまい、他者と切り離された「孤立人の観照」としただ「他の人」に対して向けられる「問い」として、いわば「一人歩き」してしまうとどうなるのでしょうか。

そこには「他の人」から「まねぶ」姿勢は一切存在しておりません。

「問い」を探究することは確かに大切です。
それは時分自身が問い、そして「他の人」との間の相関関係がうまく機能したとき、最高度にその威力が発揮するあり方なのだと思います。

しかし、自分自身で「問う」という“振りをしながら”、自分で探究することもなく、ただ「他の人」に対して「問い」を“投げつける”だけであったならば、それは「問う」そして「学ぶ」という「探究する」あり方とは似て非なる結果しか残さないのでしょう。

元来、哲学的探究において「なぜ」という問いは言うまでもなくきわめて重要な問いかけのひとつです。

しかしその実、「なぜ」ということが問われれば問われるほど、その根拠が挙げられれば挙げられるほど、そのまた根拠は何か、というふうに無限背進してしまうことが往々にあります。

たとえば、うえの問題に関してカントは定言命法(「汝の確率が……」)によって根拠づけられると考え、和辻哲郎は「信頼の裏切り」だから殺してはイケナイと説明しています。

しかし、「なぜ信頼を裏切ってはいけないのか」と更に問いが進んでしまうと、応答責任性に反するから(和辻)……などと応えることも方法論的には可能でしょうが、それでも、次には「なぜ、応答する必要があるのか」というふうに「根拠の根拠」を求めて議論が無限に進行していくわけです。

無限に続く問いかけのなかで、結局答えを見つけだすことに疲れ果ててしまうことは、その不条理を嘆く以上にありふれた現況です。

そしてその背進が進めば進むほど、結局、探究の途上で「究極的な根拠なんてないや!」となってしまうこととすればそれは不毛の荒野以外の何者でもないのでしょう。

探究が途中で挫折した結果、たとえば「人殺す論理」の場合、具体的にはどういう物言いがでてくるのでしょうか--。

「理由もないから、あるいは、殺しても善いのではないか」というもの言いがそのひとつでしょう。

ミニマ・モラリア(最低限の倫理)の「議論」として比較的頻繁に出てくるもののひとつに「他人に迷惑をかけていないから何をやってもいいだろう、ボケッ!!」っていう言い方があります。

論理学の方法論的議論としては確かに「筋」は通っています。
他人に迷惑をかけていないのであれば、確かに「何をやってもよい」のでしょう。

しかし、その議論には、実は、何か居心地の悪さを感じられずにおれないのも人情です。そして、それは痛痒のような居心地の悪さといっていいでしょう。

根拠の根拠が求められないのは理由にならないのでしょう。

その居心地の悪さとは、おそらく問いと答えの応答関係のみに真偽を委ねる、排他的な詭弁なのではないだろうかという点です。哲学者・思想家はえてして、議論における厳密性を追求する過程で、現実感覚を喪失してしまうのかも知れませんが、そうした地に足のついていない議論が昨今跋扈するようになっているのではないかとは思う宇治家参去です。

論理学の初歩の初歩では、まさにイエスorノー、イエスorノーで、とことこん、状況を整理しながら、真に至ろうとします。誤った与件は排除され、飽くなき真理を追究していくのが、その議論の目的ですから、致し方有りません。

しかし、その過程で、オッカムのカミソリによって切り落とされてしまう何かがあるのでしょう。

そこに居心地の悪さを覚えるのだろうと思います。

以前にも書いたかも知れませんが、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いは、「なぜ人を殺してもいいのか」という問いとひとつものの裏表です。それを「ふまえず」どちらか一方のみを厳密に追究するのは、筋道は通っているように見えても、現実からどんどん遠ざかっていってしまうのではないでしょうか。

そして、そのトータルな「問い」を見つめずに、先鋭化していく問いは、実は「自分自身の問題としてに問われていない」し、それだけでなく、「なぜ、なぜ」とだけ、他者(応答者)を責め続ける独白に他なりません。

悪く言えば「孤立人の観照」と称しておきながら、「孤立人として観照」すら放棄したといっても過言ではないでしょう。

根拠の問いを相手にぶつけるだけぶつけ、自分に問わない、そして他者とすりあわせないのであれば、論旨は通っていたとしても不毛な荒野しか存在しません。

「何で人を殺してはいけないのか」……答えのない問いをぶつけ、それで答えがないことをいいことにして、そして最後に出てくるのが「していいんだ」という論理は、自分自身の問いの探究と似て非なるものでしょう。

本来、この手の問い……すなわち「なぜ」という問い……は、自己自身が探究すると同時に、共同存在としての他者との相関的な応答関係を欠いては存在し得ません。子供が「何」と問う在り方とは全く異なる在り方なのですが、「なぜ」という問いを投げかけながら、「何」と問うやり方は、どこか無邪気さを装いながら、自分自身の問いとして煮詰めないそれであり、オルテガ(José Ortega y Gasset,1883-1955)なんかにいわせると、おそらく「甘えんぼの自己正当化」ということになるのでしょう。

伝統や権威を批判する手法として上記の議論スタイルは確かに、時代を大きく転換させる翠点として機能したのは事実です。

しかし、この手の問いは、そのトータルな問い方の広さをを全体の中で、そして自分自身の問いとして高めながら、そして、他者とすりあわせる作業(対話)なしには完遂できない問いなのだと思います。

そして、付け加えるならば……、
問いに対する答えがない……というのは理由にならないのではないだろうかと本能的に嗅ぎ取ってしまいます。

議論は議論でおおいにやればよい。

その議論の中で、「孤立人の観照」として「他の人」に問い訪ねるだけでなく、自分自身も問い、そして「他の人」と一緒に悩み・考える・そして「根拠の根拠」に至らないにしても、自分も「他の人」も「心底納得する」ところへ高めていかない限り、なかなかうまくは生きていけないのだろうと思います。

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「問う」とは訪(とぶら)いたずねることである。人を訪ねる、人を訪(と)う、というごとき行為的連関において、その人に安否を問うというごときことが行われる。安否を問うのはその人の存在の有りさまを問うのであり、従ってその人を問うことにほかならぬ。このような間柄の表現が問いの根源的な意味である。

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しかし、「問う」とは「訪いたずねる」ことであるとすれば、通俗的ですが、発話者と受話者の間における「相互尊敬の念」がない限り、結果としては根拠の根拠は手に入れることは出来なかったとしても、「問い」を意義あるものに転換し、「納得して」生きていくことは不可能かもしれません。

それこそが「大人の詐術」だと無邪気さんにはののしられるのも承知ですが、「“根拠がない”から○○だ」と開き直るよりも、コッコイイ大人なのでは?

……などと思う昨今です。

ですから、少し“濁った”宇治家参去は、「國盛のにごり酒」(中埜酒造株式会社)でまどろみつつ、ぼちぼち寝ましょうかねえ。

“にごり”のふくよかさが、しばれる冬の夜には、マア効くわけですナ。

で……思い出しついでひとつ。
そう言えばヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel,1770-1831))が面白いことを言っている。

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 精神にあっては外的なものはただキッカケであるにすぎない。精神はこの外的なものを問題にするが、結局は自分自身と自分自身の諸規定だけが問題である。
    --ヘーゲル(武市健人訳)『哲学入門』岩波文庫、1952年。

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