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実直な人が、悪を見のがすのを寛容と思い誤って、いい加減な態度をつづけてゆくならば、今日のような混沌状態は永久につづくだろう

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 仁人たちは問うかもしれない。では結局、われわれには「フェアプレイ」は一切無用なのか、と。私はただちに答えよう。もちろん必要だ。だが時期が早すぎる、と。これすなわち「言い出しっぺ」論法である。仁人たちはこの論法を採用したがらないかもしれないが、私のほうが筋が通っている。というのは、国産型紳士あるいは西洋型紳士たちは、中国には中国の事情があるから、外国の平等や、自由や、等々のものは中国には適用できぬと、口ぐせのように言っているではないか。この「フェアプレイ」もそのひとつだと私は思う。そうでないとすると、相手がきみに「フェア」でないのに、きみが相手に「フェア」にふるまう結果、自分だけがバカを見てしまって、これでは「フェア」をのぞんで「フェア」に失敗しただけでなく、かりに不「フェア」をのぞんだとしても不「フェア」に失敗したことになる。それゆえ「フェア」をのぞむならば、まず相手をよく見て、もし「フェア」を受ける資格のないものであれば、思い切って遠慮せぬほうがよろしい。相手も「フェア」になってから、はじめて「フェア」を問題にしてもおそくはない。
 これはすこぶる二重道徳を主張するきらいはあるが、やむを得ない。そうでもしなければ、中国には多少ともましな道がなくなってしまうからだ。中国には、今でもたくさんの二重道徳がある。主人と奴隷にしても、男と女にしても、道徳がみなちがっていて、統一されてはいない。もし「水に落ちた犬」と「水に落ちた人」だけを一視同仁にあつかったとしたら、それはあまりに偏した、あまりに早い処置であること、あたかも紳士たちのいわゆる、自由平等は悪いわけではないが、中国では早すぎるというのと同様である。それゆえ、「フェアプレイ」の精神をあまねく施行したいと思う人は、少なくとも前に述べた「水に落ちた犬」が人間の気を帯びるまで待つべきだと私は考える。むろん、今でも絶対におこなってならない、というのではない。要するに、前に述べたように、相手を見きわめる必要があるのだ。のみならず、区別をつける必要があるのだ。「フェア」は相手次第で施す。どうして水に落ちたにしろ、相手が人ならば助けるし、犬なら放っておくし、悪い犬ならば打つ。一言にしていえば「党同伐異」あるのみだ。
 心はどこまでも「婆理(ボーリー)」、口はどこまでも「公理(コンリー)」の紳士諸君の卓論はここでは問題外として、誠実な人がよく口にする公理についてみても、それは今日の中国で、けっして善人を助けることにならず、かえって悪人を保護する結果になる。なぜなら、悪人が志を得て、善人を虐待するときは、たとい公理を叫ぶ人があろうとも、彼は絶対に耳に入れない。叫びはただ叫びにおわって、善人は依然として苦しめられる。ところが、なにかの拍子に善人が頭をもたげた場合には、悪人は本来なら水に落ちなければならぬのだが、そのとき、誠実な公理論者は「報復するな」とか「仁恕」とか「悪をもって悪に抗する勿れ」とか……をわめき出す。すると、この時ばかりは単なる叫びでなくて、実際の効果があらわれる。善人は、なるほどそうだと思い、そのため悪人は救われる。だが救われた後は、してやったりと思うだけで、悔悟などするものでない。のみならず、兎のように三つも穴を準備してあるし、人に取り入ることも得意だから、間もなく勢力を盛り返して、前と同様に悪事をはじめる。そのときになって公理論者はもちろん再び大声疾呼するであろうが、今度は耳を貸すものでない。
 もっとも「悪を疾(にく)むこと太(はなは)だ厳」にして「之を操(と)ること急に過ぐ」るのこそ、漢の清流と明の東林とが失敗した原因だといって、批評家はよく非難を浴びせるが、そのくせ、相手のほうが「善人を疾むこと仇のごと」くであったことを忘れているのだ。もしこれからも光明と暗黒とが徹底的にたたかうことをせず、実直な人が、悪を見のがすのを寛容と思い誤って、いい加減な態度をつづけてゆくならば、今日のような混沌状態は永久につづくだろう。
    --魯迅(竹内好訳)「『フェアプレイ』はまだ早い」、竹内好編訳『魯迅評論集』岩波文庫、1981年。

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魯迅(Lu Xun,1881-1936)の作品は何度読んでも難解で、なかなかその奥義に到達できないところがありますが、それは散文に限らず、評論に関しても同じで……、なんと表現すればよいのでしょうか、難解といえばドストエフスキー(Fyodor Dostoyevsky,1821-1881)の作品も難解ですが、ぼそぼそと語る響きに耳を傾ける難解さがドストエフスキーのそれであるとすれば、魯迅のそれは、切れすぎる剃刀で次々と切り落とされる片方を拾い続けるような難解さとでもいえばいいでしょうか……。

ある意味では、戦略的な苦渋に満ちた難解さなのかと思うところです。

うえに引用した文章は、戦間期の混乱した中国(中華民国)における魯迅の発言のひとつです。理性的な「大人」であれば、いわゆる「フェア・プレイ」を訓戒的に遵守するのがそのひとつの理想とされるわけですが、それを訓戒的に墨守すればするほど、一の悪のために十の善が滅んでしまう……しかし、「フェア・プレイ」を気取るジェントルマンたちは、それでもなお自分ルールとしている「フェア・プレイ」を守り続けてしまう。そうした状況に対する苛立ちとでもいえばいいのでしょうか……そこを激しく突いた魯迅の血の弾丸がうえの文章になろうかと思います。

振り返ってみれば、自分自身にも同じ様なところがあります。
魯迅も指摘している通りで「では結局、われわれには「フェアプレイ」は一切無用なのか、と。私はただちに答えよう。もちろん必要だ」ということです。

しかし、その「フェア」に専念し続けるとどうなるのでしょうか……。
現実の生きている人間の生活世界から遠ざかってしまう場合も多々あるのかもしれません。特に知識に関わる生き物は、やれ価値自由だの、不偏不党だの、よけいなスローガンが頭をよぎるわけで、そこに引きずり回されてしまう部分があります。
※ただしヴェーバー(Max Weber,1864-1920)がいうとおり、“価値自由(Wertfreiheit)”とは、不偏不党の中立性とはまったく異なる概念なのですが、ここではひとまず措きます。

で……
結婚した当初、細君に酷く叱られたことがあります。
作業架設の議論にしか過ぎませんが、たとえば、「私が強盗殺人犯ぶっ殺されたらどう思う」という無理難題をふられたわけですが、そこで……

「一応……理性を司る哲学とかそのへんの学問を“行じている”知識人?としては、“それでもなお”殺人犯に対して、死刑を宣告することには荷担できない。すべての人間の生命は尊厳されてしかるべきであり……云々かんぬん」

「あきれた……」とのことだそうです。

フェアを徹底的に追求していくと、マアおそらく上のようないい方がフェアであると判定されるのでしょうが……そこには違和感が必ずつきまといます。魯迅の隔靴掻痒もそれなのかもしれません。

「要は貴方はどう思うのか……ということだ」とのことだそうです。

「やはり……知識人?に属する立場にあるものとしては、それがオフィシャルな発言であれ、プライベートな発言であれ、“それでもなお”……踏み込めないんです」

「……」

これがフェアを徹底的に追求していく議論の陥穽なのかもしれません。
その辺りを魯迅もうまく表現しております。
※蛇足ですが、、それを踏まえ最近では、「仇討ちに行きます」と答えるようにしておりますが……。

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誠実な人がよく口にする公理についてみても、それは今日の中国で、けっして善人を助けることにならず、かえって悪人を保護する結果になる。なぜなら、悪人が志を得て、善人を虐待するときは、たとい公理を叫ぶ人があろうとも、彼は絶対に耳に入れない。叫びはただ叫びにおわって、善人は依然として苦しめられる。ところが、なにかの拍子に善人が頭をもたげた場合には、悪人は本来なら水に落ちなければならぬのだが、そのとき、誠実な公理論者は「報復するな」とか「仁恕」とか「悪をもって悪に抗する勿れ」とか……をわめき出す。すると、この時ばかりは単なる叫びでなくて、実際の効果があらわれる。善人は、なるほどそうだと思い、そのため悪人は救われる。だが救われた後は、してやったりと思うだけで、悔悟などするものでない。のみならず、兎のように三つも穴を準備してあるし、人に取り入ることも得意だから、間もなく勢力を盛り返して、前と同様に悪事をはじめる。そのときになって公理論者はもちろん再び大声疾呼するであろうが、今度は耳を貸すものでない。
    --魯迅、前掲書。

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しかしだからといってその前提条件を、「無用だ」「戯れ事にすぎない」ということもナンセンスなのかもしれません。だからこそ魯迅は慎重に、「では結局、われわれには「フェアプレイ」は一切無用なのか、と。私はただちに答えよう。もちろん必要だ」と答えている通りです。

善をめぐる前提条件は決して譲ることはできない。
しかし、所与の「フェア」なるものが人間を規定し、その奴隷となるのか。
それとも人間自身がそうした所与の「フェア」なるものと、そして共同存在の人間同士で、その「フェア」をどのように立ち上げていく、そして実現していくことを選択していくのか。どちらを選ぶのもまさに自由ですが結果は大きく違ってくるのかも知れません。

ともすると、公正を意味する「フェア」を考えると、国産型紳士や西洋型紳士が代表する公理論者は前者の立場を取りがちなのですが、それによって失われてしまうものも多いと魯迅は見て取ったのでしょう。積極的に「フェア」を立ち上げるためにはどのような「戦略」が要求されているのか……原点を忘れずに考え、行動しなさい……そう諭しているように思えて他なりません。

ちょうど、本日、細君が夜、所要のため、息子殿を風呂に入れるのですが、これがまた言うことを聞きません。だからといって手を挙げるわけではありませんが、「フェア」とは何か……少し生活の中で考えざるを得ません。

放っておいても子供は生物学的には育ちます。しかし人間のある意味では強制的な関与がなければ人間には成長しないもんだよな……などと実感すること頗るあり、魯迅の次の言葉に納得です。

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それゆえ「フェア」をのぞむならば、まず相手をよく見て、もし「フェア」を受ける資格のないものであれば、思い切って遠慮せぬほうがよろしい。相手も「フェア」になってから、はじめて「フェア」を問題にしてもおそくはない。
    --魯迅、前掲書。

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別に子供に対する親の監督権限を強化せよとか、善を実現するためには何をやってもヨロシという議論ではありません。

ただ、前提としての「フェア」なる理念を決してどぶ溝に捨てることもなく、理念を理念たらしめる、そしてそのたらしめる努力の中で悩みながら前進することこそ肝要なのではなかろうか……ふと風呂から出た息子殿の体を拭きながらそう思う次第で。

昨今の様々なニュースを見るにつけ……身近な生活で言うと詐欺の横行から為政者の不祥事、そして人間を抽象化してしまった結果の経済危機の状況……「善人は依然として苦しめられる」(魯迅)のであれば、安全地帯から「フェア」を墨守するのではなく、戦場のただなかで他者と語り合いながら「フェア」を立ち上げていかなければいけないのかなと痛感する次第です。

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