« 根拠のある楽天的、積極的人生観 師匠の必要性 笠置そば | トップページ | 思い出はあまりムキになって確かめないほうがいい »

<存在それ自体>の力が、存在者に<存在への勇気>〔生きる勇気〕を与えるのである

01_img_0307 02_img_0309 03_tillich_

-----

 これまでわれわれは<信仰>(faith,Glaube)という言葉を、神秘主義的なあるいは人格的出会いによる存在の根底とのかかわりの記述のため使用することを避けてきた。それは、<信仰>という語がその本来的意味を喪失し、何か「途方もないものを信じる」ような意味に用いられるようになってきたということも、その一つの理由である。しかし、<信仰>という語を神秘主義にも人格的出会いにも用いなかった理由はそれだけではない。その決定的な理由は、神秘的合一も、人格的出会いも、<信仰>という言葉の内容を十分みたすものではない、ということである。たしかに、霊魂が有限なるものを越えて無限なるものへと上昇し、そして存在の根底と合一するにいたる、ということのなかに<信仰>は存在する。また人格的な神との人格的出会いのなかにも<信仰>はある。しかし<信仰>という概念のなかにはそれ以上のことが含蓄されているのである。<信仰>とは、<存在それ自体>(being-itself)の力によってとらえられている状態である〔ここをドイツ語訳は敷衍してこう訳している--信仰とは、われわれに無制約的にかかわっているところのもの、つまりわれわれの存在と意味の根底、によって捉えられていることである〕。生きる勇気とは<信仰>の一つの表現であって、<信仰>が何を意味しているかは、生きる勇気を通して解明されねばならないのである。われわれは勇気をこう定義した、勇気とは、存在が無にあらがって自己自身を行程することである、と。この生きる勇気の行為において、<存在それ自体>の自己肯定(die Selbstbejahung des Seines-Selbst)が、その行為をする存在者のなかに働くのである。<信仰>とは、<存在それ自体>の力が、存在者に<存在への勇気>〔生きる勇気〕を与えるのである〔この部分はドイツ語訳が説明的であるのでそれによった〕。
 このような経験は、逆説的性格をもっている。それは人間が肯定されているという意味の肯定であり、そしてその肯定に基づいて人間が自己を肯定することなのである〔ここもドイツ語訳によった〕。<存在それ自体>は、すべての有限的存在を無限に超えている。神は、神と人間との出会いにおいても、人間を無制約的に超越しているのである。<信仰>は、その逆説的性格において、この無限の隔たりを橋渡す。それはこの無限の隔たりにもかかわらずそこに<存在それ自体>の力が現前しているという事実を受け容れるからであり、人間がその隔たりにおいて分離されているにもかかわらず<存在それ自体>の力によって受け容れられているということを受け容れるからである。信仰は「それにもかかわらず」受け容れる。そしてこの信仰の「それにもかかわらず」から生きる勇気の「それにもかかわらず」が生まれるのである。信仰とは、何か不確かなものを承認するという一種の理論的肯定ではない。信仰とは、日常的経験を越えている何ものかを実存的に受け容れることなのである。信仰とは臆見ではない。それは一つの状態(a state,ein Zustand)である。それはあらゆるものを超越しておりしかもあらゆるものがそれに参与しているところの<存在それ自体>の力によってとらえられている状態なのである。この<存在それ自体>の力によってとらえられている人は、自己自身を肯定することができる。それは彼自身が存在の力によって肯定されているということを知るからである。これこそそこで神秘主義的な生きる勇気と人格的出会いにおける生きる勇気とが結合される一点なのである。<信仰>がこの両者における生きる勇気の基礎となっている。
    --パウル・ティリッヒ(大木英夫訳)『生きる勇気』平凡社、1995年。

-----

ちょうど吉野作造(1878-1933)の「四海同胞精神」、そして「ひとはすべて神の子である」(「神の子」は人間に内在する「仏性」と言い換えてもよいのでしょうが)という信念を再度確認しつつ、読んでいたのが、現代プロテスタンティズムを代表する亡命ドイツ人神学者ティリッヒ(Paul Johannes Tillich,1886-1965)の『生きる勇気』です。

一般向けに語られた言葉で、古今の聖賢の言葉に耳をかたむけながら、「生きるとは何か」そしてその根源力の「勇気」とは何かをかんがえさせられた一冊です。

「生きる勇気」とは確かに「自己自身を肯定する」ことなのでしょう。
しかし、その肯定を何によって媒介して肯定するのか、そこが大切になってくるのかも知れません。

媒介を欠いた……すなわち己をむなしゅうするような徹底的な自己相対化を欠いた「自己自身を肯定する」ことは、自己自身の物神化にほかならず、物神化のレベルとは、自己自身とは異なる自己自身化であるとすれば、本来的な意味での「自己自身を肯定する」とは隔たった物象化になってしまうのでしょう。

自己自身をたえず「相対化」するなかで、その現場のなかで、「自己自身を肯定する」……決してたやすいことではなく、そしてなかなかできないことですが、その真の「自己自身を肯定する」ことによって、人間という生き物は、自分自身を肯定し、そして自分自身と「共に(=友に)住まう」他者を肯定することができるのかもしれません。

自己自身を物神化した自己自身とは自己自身とかけはなれた自己自身であり、そこには自己を肯定する力もなく、他者を許容する寛容も存在しないだろうと思います。

そうした誘惑をさけつつ、自己自身のどうしようもなさを自覚し(=存在の肯定)、そこからはい上がっていくのが、信仰の呈示する「生きる勇気」なのだろうと思います。

宗教学者としては、そこまで「踏み込む」のはタブーなのですが、そもそも宇治家参去は神学者ですから、こうした議論は許容してもらいたいというところで……。

一昨日……。
久し振りに、家族と寿司ツアーへ出かけましたが、寒鰤は旨かったです。

一般的には、冬は味覚の乏しい季節だと認知されがちですが、冬だからこそ、食物の余塵するメタボも締め付けられ、ウマミがますというのは真実かも知れません。

飲みながら書いているので、詳細なコメンタリーはまた後日でゆるしてちょんまげじゃ。

ですけど……(いつもながらくどいのが宇治家参去です)、

寒梅が終わりつつあるのが、すこし寂しいところです。

もう、桃とか櫻なのかな?

04_img_0353 04_img_0368 06_img_0363

生きる勇気 (平凡社ライブラリー) Book 生きる勇気 (平凡社ライブラリー)

著者:パウル ティリッヒ
販売元:平凡社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

|

« 根拠のある楽天的、積極的人生観 師匠の必要性 笠置そば | トップページ | 思い出はあまりムキになって確かめないほうがいい »

神学」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: <存在それ自体>の力が、存在者に<存在への勇気>〔生きる勇気〕を与えるのである:

« 根拠のある楽天的、積極的人生観 師匠の必要性 笠置そば | トップページ | 思い出はあまりムキになって確かめないほうがいい »