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「全ての酒はビールに通ず」

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……中世より近世への転換期に於ける思想界の状況について概観したところを要約するならば、仏教は数百年にわたる思想的覇権を喪失して、僅かに封建支配者の宗教政策(具体的には対切支丹政策)への完全な奉仕によって無気力な存在を保つ隷属的位置へとあわただしく転落しつつあり、これに対応して神道はその理論的基礎を従来の仏教より、新興の儒教に切り換えんとし、この間ヨーロッパより流入し来ったキリスト教は、一切の伝統的観念形態との鋭い対立を通じて、我が国民に幾多の新たなる問題を提示したけれども、封建社会の再編成途上に於ける政治的権力の激烈な弾圧を蒙って、強制的に思想界から放逐せしめられ、かくしてひとり儒教が、とくに鎌倉時代に入り来った宋学が、近世封建社会の確立と共に急激に蔓延して殆ど思想界を独占するに至るのである。
    --丸山眞男「伝統的イデオロギーの諸形態」、『丸山眞男講義録[第一冊] 日本政治思想史1948』岩波書店、1998年。

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日本を代表する政治学者、思想史家(哲学者といってもよいかもしれませんが)のひとりが丸山眞男(1914-1996)です。

もともと、丸山眞男の作品に関しては、手軽な岩波新書の『日本の思想』なんかで、比較的若いうちから“慣れ親しんできた”ところもあり、マア「日本を代表する良識的な政治学者なんだよな」とまさに、若い頃は“たかをくくって”おりましたが、ちょうど大学院の中盤くらいから、丸山の講義録やら座談録が相次いで出版されたこともあって、あらためて読んでみると、自分の浅はかな通念を打破された思い出があります。

すなわち、丸山は専門も深いけれども、その専門をささえる知識・教養も“半端ではない”ということです。

丸山はプロパーとしては、まさに「政治学」を専門とするわけですが、丸山の業績でおもしろいなと感じる部分は、現今の政治学の対象を論じるにあたって、その「古層」を丹念に探っていくという部分です。

「古層を丹念に探る」と聞けば「現在の状況を確認するために、過去に目を向けることでしょ? 誰でもやっているじゃないか?」などと聞こえてきそうですが、確かにそういわれればそうなのですが、実際にこれをやっていくのは大変なことです。

例えば、昭和の戦後政治史を概括するに当たり、例えば、戦中・戦後の政党関係論をふまえた上で、題目を論ずる政治学者なるものは多数ありますが、丸山が追求していく「古層」とは、そうした「昨日」だけではないということです。

例えば、日本における政治思想史を論じるに当たっては、大正・明治の事件はいうまでもなく、それを「古層」から規定していく江戸思想史(細かくは朱子学の系譜学)、そしてその江戸思想史を規定していく、江戸期以前の思想史・学問史をふまえた上で、丸山は問題を論じていくわけです。そしてそれを大学で講ずる。

なかなかできることではありません。

確かに「専門家」としての「知識人」は自分が「専門」とする分野を丁寧に追跡すればよいわけですが、そもそも「専門」と呼ばれる対象は、その分野に「収まりきる」ものではありません。しかし、その土台・土壌をどのようにふまえ、その沃野のうえに、どのように「専門」を深くうちたてていくことができるのか……そのことが問われているような気がして他なりません。

さて……。
上の引用では、近世初頭における日本における諸宗教の動向を概括した部分です。
この切支丹時代を経て、宗教(仏教)は倫理と分離され、宗教は葬送儀礼を担当し、儒教ただひとりが倫理を担っていくことになります。そして宗教と倫理の問題が再び見直されるようになるのは、遠く明治時代に至って、キリスト教が再渡来してから議論されるようになるのが思想の流れです。

たしかに、キリスト教(ここでいうキリスト教とは狭くいうならば戦国時代に渡来したローマ・カトリック)は、積極的に「封建的イデオロギー(豊臣秀吉による天下統一による一元的な武家政権のイデオロギー)」を「革命」しようという発想はありません。しかし、それが大名の宗教(キリシタン大名)から、民衆の宗教へと土着化するなかで、宗教を問題にしない……否、手段としてみる……体制イデオロギーからは結果として、「怪しい存在」として疎まれ、まさに「政治的権力の激烈な弾圧を蒙って、強制的に思想界から放逐せしめられ」てしまいます。

そして、「仏教は数百年にわたる思想的覇権を喪失して、僅かに封建支配者の宗教政策(具体的には対切支丹政策)への完全な奉仕によって無気力な存在を保つ隷属的位置へとあわただしく転落しつつあり」だったのですが、切支丹放逐と同時に、「転落」してしまうわけでございます。

もちろん、このことが幸か不幸かは一概に論ずることはできません。
たとえば、その時代までに形成された日本的精神風土の「死者」に対するアプローチ、すなわち、生者は死者に“触れてはいけない”という“穢”の問題から考えると、仏教が葬送儀礼に徹したことは、その問題をレコンキスタとしたいう意味で積極的に評価することも可能なのでしょうが、それでもなお、現在の日本人の宗教観を著しくいびつなものとして規定する「古層」になったことだけは疑いようのない事実であり、そのことを勘案すると、「どうなのかな」などと思ってしまいます。

で……。
風邪を引く、ないしは、調子が悪いと、実は煙草の味が実に「クソ不味く」なります。
しかし、生来の愛煙家としては、それでやめるようなことはなく、実にぷかぷかとやるわけです。例えるならば、大のサッカー好きのサラリーマンの方が、朝7時には家を出ないと行けないのに、朝4時からのサッカー中継を見て出勤するようなもので、この場合においては、他者は「録画で見ろよ」って忠言するかもしれませんが、当人においては、「リアルタイムで見ないと意味がない」との反論の如く、調子が悪くても、煙草に火をつけます。

これと同じように、本日も、肺腑が重いのは重いのですが、煙草に火をつけると、「クソ不味く」なく、「味わい」を感じられるようになったので、チトはやいですが、「独り快気祝」でございます。

宇治家参去……連日日本酒を飲んでおりますが、実は日本酒以上に大好きなのがビールです。どこかの偉人が言った言葉にあるのかどうか定かではありませんが、「全ての酒はビールに通ず」というわけで、本日は「世界一魔性を秘めたビール」と称されるゴールデン・エールの最高峰『Duvel』(ベルギー)にて晩酌です。

連日の如く、晩酌用に「湯豆腐」はセッティングされていたのですが、これだけだとチト「盛り上がらない」ので、冷凍食品のコーンとほうれん草、それに「鎌倉ハム」の熟成ベーコンをいため、簡単なソテーをつくり、これから一献です。

いわゆるラガービールが「下面発酵」なのに対し、ベルギー、デンマーク、ドイツ系のビールに多いのが「上面発酵」のエールビールで、大麦麦芽を使用し、酵母を常温かつ短時間に発酵させた、その複雑な香りと深いコクはなんともいえません。

この鼻に抜ける香りがなんともいえません(「鼻に抜ける」というほど快復しているということでしょう!)。

と……。
ここで終わると何なんで、最後にひとつ。

丸山眞男はうえの講義録において、キリスト教が戦国~江戸時代初期において流行(たった半世紀でおよそ75万信徒!)に関して、次のような理由を指摘しております。すなわち、①貿易の利、②仏教徒への対抗、③宣教師人格の高潔、④慈善・育児・病院・救貧活動の4点です。

①②に関しては「日本史」の教材を繙けば分かるように、①対明貿易から次の貿易相手・先端知識の宝庫として「南蛮」への関心でえあり、②織田信長が手を焼いたように武装僧侶・堕落僧侶への対抗機軸としての需要といことになります。ただし、これは統一政権が誕生した折りには、その役目を終える契機であって単なる「戦略的需要」にほかなりません。しかし③④に関してみるならば、それが民衆の宗教、生きた信仰の契機であって看過すべからざる理由なのでしょう。

フロイス(Luis Frois,1532-1597)をはじめとする、戦国期に来日した宣教師の報告を読んでいますと、面白いように、堕落した仏教の僧侶に対する批判がえんえんと羅列されております。
べつにキリスト教を宣揚しようという意図は毛頭ありませんが、その意味では、江戸幕府によって仏教という制度宗教が“骨抜き”にされる以前に、実はその命脈をおえていたのかな……などとも思ってしまいます。この時期渡来したキリスト教は結果としては、政治的権力の激烈な弾圧を蒙って、強制的に思想界から放逐せしめられ」てしまいますが、そうした状況にいたらず、諸宗教の、いわば「人道的競争」が保証されていたならば、また違った思想状況が現在に展開していたのかもしれません(とわいえ、歴史の事例を“if”で語るのは鬼門なのですが)。

とわいえ?
アナロジカルにいうならば、フロイスの批判というのは、ルネサンス末期を代表する人文学者にして、宗教改革の旗手として名高いエラスムス(Desiderius Erasmus,1467-1536)の聖職者に対する批判として有名な『痴愚神礼讃』(大出晃訳、慶應義塾大学出版会、2004年)を読んでいるようでもあり、その歴史の連鎖に驚くばかりです。

ともあれ、宗教社会学の知見に耳を傾けるとそのデータから俗に言われるとおりですが、宗教への回心とは、その信仰の高低深浅というよりもその紹介者の影響が最も大きいという報告がかなり存在しますが、結局は「人」によるんだよな、などと思う宇治家参去です。

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もうすぐ1歳5ヶ月ですが、ベビーベッドはまだ使っています。まだまだ使うつもりです。でもベビーベッドはいくつか工夫してます。 [続きを読む]

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