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quasi-religionに「なんだかな」

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 しかしわたしは、精神の分野で行ったわたしの実験を、ぜひ話しておきたいのだ。というのは、それは私自身にしかわかっていないことだからである。またその実験から、わたしは、政治の分野の活動にわたしがもっている力を引き出してきたのであった。もしも実験が真に精神的なものであれば、自己礼讃が入りこむ余地がありうるはずはない。それは、わたしに謙譲を加えるのみである。過去を熟考し、回顧すればするほど、ますますはっきりとわたしの限界を感じてくるのである。
 わたしがなしとげようと思っていること--ここ三十年間なしとげようと努力し、切望してきたことは、自己の完成、神にまみえること、人間解脱(モクシヤ)に達することである。この目標を追って、わたしは生き、動き、そしてわたしの存在があるのである。語ったり、書いたりするやりかたによるわたしの行為のいっさいと、政治の分野におけるすべてのわたしの冒険は、同じ目的に向けられている。
 しかしわたしは、一人の人に可能なことは、万人に可能である、とつねに信じている。だから、わたしの実験は、密室の中で行われたのではなく、公然と行われてきた。そして、わたしはこのことのために、実験の精神的価値が減じたとは考えない。世の中には、個人とその創造者のみにしかわからないものがいくつかあって、それらは、明らかに他の人に伝達不可能のものである。わたしがこれから話そうとする実験の数々は、そのようなものではない。それらは、あくまでも精神的なものである。あるいは、道徳的なものといったほうがよいかもしれない。というのは、宗教の本質は道徳性にあるからである。
    --ガンジー(蝋山芳郎訳)『ガンジー自伝』中公文庫、1983年。

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政治の根底には深い宗教性が必要不可欠であると喝破したのはインドの聖者・マハトマ・ガンジー(Mohandas Karamchand Gandhi,1869-1948)ですが、ガンジーの言葉に耳を傾けてみると、様々な諸分野が分断対立している状況のなかで、どのようすれば、その有機的な繋がりが快復し、強化していけるのだろうか、その模索の人生だったのではないかと思うことがあります。

とくに日本においては、徳川時代以降、倫理と宗教が基本的には棲み分けという状況に強制的にならしめられたためでしょうか、倫理と宗教、もう少し踏み込んで言うならば、道徳と宗教に関する生産的な議論がほとんど見受けられません。

倫理・道徳は深い宗教性を欠如した状態で、「世俗内倫理」としてのみ「方法論」的に語られる乃至は命じられる形でその言説が存在し、宗教はどちらかといえば、冠婚葬祭を初めとする儀礼としてその息を永らえているというのがその現況なのでしょう。

しかし、ヴェーバー(Max Weber,1864-1920)鮮やかに浮かび上がらせたように、現実には「世俗内倫理」として機能する世俗的「道徳」であったとしても、その根底には深い霊性の関わりがあるわけで、その両者を単純に、こちら側とあちら側で立て分けて理解することは不可能なのも事実です。倫理・道徳と宗教の霊性をこちら側とあちら側で立て分けて理解してしまう、そしてそういうものとして流通させてしまうところに、両者の生命が失われてしまう契機が存在するのではないだろうか……そう思えて他なりません。

それが失われてしまう、乃至は力が奪われてしまったとき闊歩し始めるのが、神学者ティリッヒ(Paul Johannes Tillich,1886-1965)の指摘する「quasi-religion」(擬似宗教)なのでしょう。確かに制度宗教の凋落を指摘することは簡単ですが、その過程で力を付けてきたまじない・オカルトとといった「精神世界」ブームを見るにつけ、そのことを実感せざるを得ません。制度宗教が力を失いつつあるのは確かなのですが、quasi-religionの勃興を見るにつけ、「なんだかな」と思うところで……。

人間には「信」という精神構造が存在します。これは宗教に限れた問題ではなく、人間はその社会性を発揮するとき不可避的に発揮される精神構造なのですが(例えば、○○行の電車が××に向かっていくとは思わず、○○行と無意識的であっても「信じて」乗っていくわけですが)、制度宗教が力を失うなかでその間欠を商売風に付いてくるのを見てしまうとまさに「なんだかな」と思うところで……。

確かに現代世界は中世的な教権社会とは異なった社会であり、制度であり、そこに住まう人々の時代であって、「かつての時代」のように、人間や社会全体を「支配する」「コントロール」するイデオロギーとしての宗教や倫理、そして道徳というものは必要在りませんが、それを極度の「個人」還元主義的傾向のなかで、単なる「私秘的領域だけの問題」として理解・流通させてしまうのは、ひとつの極端な理解なのだと思うところです。

カリカチュアされたイメージとしての中世的な宗教や倫理、そして道徳の「支配」というあり方が一方の極端であるとすれば、現今の「私秘的領域だけの問題」として理解する・退けるあり方というのももうひとつの極端なのでしょう。

歴史を振り返ってみるならば、ひとが「自分自身の問題」を「自分自身の問題」として逡巡・熟慮・葛藤しなくなったとき、そしてひとが「他のひとと関わる問題」を「他のひとと関わる問題」として逡巡・熟慮・葛藤しなくなったとき、一方の極端から一方の極端への移行は絶やす生じてしまうのが世の常です。

いずれにしても、イデオロギー優先か、それとも孤立した個人の領域を優先させるのかという二者択一の選択肢のまえには、「生きた人間」は存在しないのかもしれません。

宗教や倫理学といったナイーヴな対象を研究する一学徒としては、宗教や思想というものが諸刃の剣であることは渋々理解しているところですが、それでもなお、人間社会とのその有機的な関係を再構築・快復しない限り、暗雲立ちこめる現況を打破することは不可能なのだろうと思うところです。

しかしながら、その状況に対して「諦める」こともできません。

なぜなら、冒頭でガンジーが吐露していているとおりですから。

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