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特権をわざと「忘れ去ってみる(unlearn)」

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 エドワード・W・サイードはフーコーにおける権力概念を批判して、それはフーコーにあっては、魅惑的で一切を神秘化してしまうようなカテゴリーと化しており、「階級の役割、経済の役割、放棄と反乱の役割を隠蔽する」結果を招いていると指摘しているが、この批判はいまの場合にはきわめて適切である。わたしはサイードの分析に付け加えてさらにひとつ、そこでは権力と欲望の密やかな主体の存在が知識人の透明性によってマークされているという点を指摘しておきたい。まったく奇妙なことにも、ポール・ボーヴェはサイードを咎めて述べている。サイードは知識人の重要性を強調するが、「フーコーの企ては、本質的に、ヘゲモニー的立場にある知識人と反対派的立場にある知識人のいずれもの指導的役割への挑戦なのである」と。ここまでの論述でわたしが示唆してきたこのは、この「挑戦」はまさしくサイードが強調していることがら--批評家が制度的に負っている責任--を無視しているがゆえに欺瞞的である、ということであったのだ。
 この奇妙なことにも否認の言葉によって〔知識人の〕透明性のなかにいっしょに縫いこまれてしまっている主体/主体は、労働の国際的分業の搾取の側に属している。現代のフランス知識人たちには、ヨーロッパの他者の名指しされることのない主体のうちにどのような種類の権力と欲望がやどっているかを想像することは不可能なのだ。かれらの読むものは、批判的なものであれ無批判的なものであれ、そのすべてが、ヨーロッパとしての主体の構成を支持ないし批判しつつ当の他者を生産する論争の内部にとらえこまれてしまっているというだけでない。そのヨーロッパの他者を構成するにあたっては、そのような主体がそれの道程をそれらでもって備給し占拠する(覆いつくす?)ことができるようにと提供されたテクストの諸成分を消し去るために、多大な配慮がなされたのでもあった。イデオロギー的および科学的な生産によってだけでなく、法の制定によってもである。経済的分析がどんなに還元主義的におもわれるかもしれないにしても、フランスの知識人たちはみずから危険を承知の上なのであろうか、この重層決定された企ての全体が、利害、動機(欲望)、そして(知の)権力が無情にも脱臼を起こすことをもとめるような、あるひとつの動態的な経済的状況の利害関心下にあって遂行されたものであったということを忘れているのである。そのような脱臼が起きているという事実をいま、経済的なもの(記述的にもろもろの「階級」を切り離す経済的生存状態)はすでに時代遅れの分析装置になってしまったと診断することをわたしたちに強いるようなひとつのラディカルな発見として引き合いに出すことは、その脱臼の仕事を続行し、それと知らずに「ヘゲモニー関係の新しいバランス」の確保に手を貸すことであるといってよい。しかし、この議論にはすぐあとで立ちもどるとして、知識人が自己の影としての他者のたえまない構成に関与している可能性を前にして、知識人にとっての政治的実践のひとつのありうる方策は、経済的なものを「抹消のもとに」置いてみることであろう。そして、経済的要因が最終的な決定因または超越論的なシニフィエであると主張するときには、実際にもそれがどんなにか還元不可能なものであっても、まさにそれが抹消されるときにも、それは社会的テクストをどれほど不完全にではあれ書きこみ直している(reinscribe)のを見てみることであろう。
    --G.C.スピヴァク(上村忠男訳)『サバルタンは語ることができるのか』みすず書房、1998年。

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サイード(Edward Wadie Said,1935-2003)以降のポストコロニアル批評を考える上で、とりわけ重要な思想家のひとりがガヤトリ・チャクラヴォルティ・スピヴァク(Gayatri Chakravorty Spivak,1942-)です。

インド出身のスピヴァクは、アジア出身でもっとも著名な女性知識人と評されており、主著のタイトルにもなっている「サバルタンは語ることができるのか」というその挑発的な彼女の問いは、現代世界において「知識」の「権力性」の問題を考えるうえでは、避けてはとおれない重要な問いかけとなっております。

サバルタンとは、イタリアのマルクス主義思想家・アントニオ・グラムシ(Antonio Gramsci,1891-1937)に由来する用語で、もともとは、南イタリアの組織化されていない最貧困農民層を指していたものです。

現代インドを対象とする研究者たちは、インド国内の最貧困層、下層カースト、ないしはアウト・カースト(カースト外のひとびと)をあらわす概念として用い、政治的・社会的状況を分析・説明しようとその言葉を使用しております。大雑把にいえば、まさに「多種多様な被抑圧下層民」と言い換えてもよいでしょう。

さて、スピヴァクは、「サバルタンは語ることができるのか」と「挑発的な問いかけ」をしたわけですが、何が「挑発的」なのでしょうか。

スピヴァクの批判は、ミシェル・フーコー(Michel Foucault,1926-1984)やドゥルーズ(Gilles Deleuze,1925-1995)といった現代フランスを代表するポスト構造主義の思想家たちにむけられております。それは、彼ら西洋の知識人がいわば、サバルタン的な状況におかれた人を「代弁して語る」ことによって、ますますサバルタン自身は「声を奪われ」「抑圧されている」のではないかという指摘です。

たしかにフーコーやドゥルーズは、権力の構造をあざやかに浮かび上がらせ、入り組んだ現代社会の現況を見事に示しだしたわけで、そのことによってマルクス主義的権力論は色あせたものになってしまったほどであります。しかし、スピヴァクは、彼らの言説が生産されればされるほど、サバルタン自身は「声を奪われ」続けていくということに注目していきます。

著作の中では、具体的にフーコーやドゥルーズが指摘されておりますが、何もスピヴァクは、このふたりだけを「槍玉」にあげようとしているわけではありません。

そもそも西洋の知識とは対象を「表象」したり「代表」したりすることによって対象を概念化する体系を豊富に備えておりますが、スピヴァクの批判とは、そうした知識体系そのものが、サバルタンという「語ることのできない」存在を不可避的に生産、そして再生産しているのではないかというというところに存在します。いうなれば、西洋的な知識の枠組みそのものに対する批判です。

理論や言説が鮮やかかつ難解であればあるほど「それらがかれらを魅惑し、わたしたちを不安にさせるのは、研究主体(男性もしくは女性の専門家)がみずからを透明な存在に偽装するのをそれがゆるしてしまいかねない」(スピヴァク、前掲書)のでしょう。

さて……、
仮に現実のサバルタンに何かを語らせたとしても、それは現実に存在する知識の権力関係を維持するどころか、かえって強化するだけですし、結果としては、「語らせる」“前”も“後”も、そこからこぼれおちていってしまう「語れないもの」としてのサバルタンが生み出されていってしまう‥‥。

すなわち、状況としてはサバルタンは常に沈黙を強いられ、知識の権力の共犯構造は堅固に維持されたままであります。

そこをスピヴァクは突いていくわけです。

「語ることのできない」存在を「語らせる」とだいたいどのようになるのでしょうか。

「サバルタンは語ることができるのか」のなかで、スピヴァクは最後にヒンドゥー教徒の伝統的な風習である「サティー」を取り上げています。サティーとは、先に死んだ夫の火葬の薪の上で自らの身体を捧げ供養するという寡婦殉死の風習です。

この風習に対しては、ふたつの「言い方」が存在します。
ひとつはインドの支配階級からのそれで、寡婦の自殺を「女性の貞操という理想を達成するために」自ら選択した自殺と位置付け、「献身という意思と勇気」を賞賛する言説です。

これに対してもうひとつの代表的な「言い方」は、西洋からのアプローチで、サティーは非文明的な野蛮な行為にほかならない、との批判がそれであります。この「言い方」からは、ヒンドゥーの男性は女性に自殺を強要する存在として批判され、同時に、まあ返す刀で、殉死の決意を「翻意」した女性は、「自由意志」をもっている存在として称揚されてしまいます。

しかし、このどちらも男性中心主義的な観点からひねり出された「言い方」に他なりません。

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 サバルタンは語ることができない。グローバル・ランドリー・リスト〔世界各地の国際空港のホテルなどに置いてある洗濯可能品目を長々と列挙した表〕に恭しく「女性」という項目を記載してみたところで、こんなものにはなんの値打ちもない。表象=代表(representation)の作用はいまだ衰えてはいない。
    --スピヴァク、前掲書。

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いずれにしても実際にサティーで自殺をする女性は、いわば「分析」の「対象」に「閉じ込められた」ままで、そこにどのような主体が存在するのか、結局は語られることはありません。表象=代表(representation)されるだけですから……。

そして、スピヴァクは、この沈黙させられた声に耳を傾け、その断章からサバルタンの女性の声を呼び起こそうとするわけですが、このサティーの自殺のただなかの中に、この伝統が持っている暴力に対する抗議の声に耳をすまそうとしていきます。

こうした実践をどのように日常生活の中で立ち上げていくのか。
すこしながくなりますが、ふたたびスピヴァクの言説に戻ってみようと思います。

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 もっとも、わたしがいま述べた注意が有効なのは、あくまでも、サバルタンの女性の意識--あるいは、より受けいれられやすい言いかたをするならば、主体--ということが口にされる場合である。第一世界や第三世界における有色の女性たちや階級抑圧のもとに置かれている女性たちが展開している性差別に反対する活動についての報告をおこなったり、あるいはさらによいことには、その活動に参加するというのは、疑いものなく、今日わたしたちに課せられているもっとも緊急の行動目標である。わたしたちはまた、人類学、政治学、歴史学、社会学の分野でおこなわれつつある、これらの沈黙させられた領域の内部にあってのあらゆる情報検索をも歓迎すべきである。しかしながら、意識あるいは主体なるものの想定と構築がそういった活動を支えており、そうであるかぎり、それは結局のところ、学問や文明の進歩に認識の暴力を混ぜ合わせながら、帝国主義的な主体構成の作業に合体していくことにならざるを得ないだろう。そしてサバルタンの女性はいつまで経っても依然として無言のままでありつづけていることだろう。
 こんなにもいろいろな危険にみちたフィールドにおいては、サバルタンの女性の意識というような問いを問うのは、そうそう容易なことではない。だからこそなおのこと、そのような問いは観念論者の仕掛けた燻製のニシン〔注意を他に逸らさせるための仕掛け〕ではないということを実践主義的なラディカルたちには気づかせる必要があるのだ。フェミニズムあるいは反性差別主義の企画のすべてがこの問いに尽きるわけではないけれども、それを無視するということは、それ事態、ひとつのそうとは認識されていない政治的な所作なのである。そして、これはこれで長い歴史があるのであって、それは研究者の占めている場所を透明に〔見えなく〕してしまうような男性的なラディカリズムに協力するものにほかならないのである。サバルタンの女性という歴史的に沈黙させられてきた主体に(耳を傾けたり、代わって語るというよりは)語りかけるすべを学び知ろうと努めるなかで、ポストコロニアルの知識人はみずから学び知った女性であることの特権をわざと「忘れ去ってみる(unlearn)」。このようにみずから学び知った特権をわざと忘れ去ってみるということはポストコロニアルの言説をそれが供給しうる最良の道具を用い手批判するすべを学び知るということをこそ意味しているのであって、ただたんに植民地化された者たちのいまは失われてしまった姿像を帝国主義的な歴史叙述に代置するという意味ではない。だから、サバルタン・スタディーズという反帝国主義的な企ての内部にあってさえサバルタンの女性が無言でありつづけているのが問われないでいるのを党ことは、ジョナサン・カラーが示唆しているように、「意見を違えることによって差異をつくり出す(produce difference differing)」とか、「本質的なものとして定義された性的アイデンティティーに訴え、そのアイデンティティーに結びついた経験を特権化する」ということではないのである。
    --スピヴァク、前掲書。

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スピヴァクの提案は「忘れ去ってみる(unlearn)」ということです。unlearnですから、いわば「学び捨て去る」と捕らえてみても良いかと思います。

この言葉はまさに「学ぶ(learn)」という語を意識して用いられた言葉ですが、日常生活を振り返ってみると、先進世界に住む人々はあらゆるメディアを通じて、まさに日常的に知識を学んでおります。しかし実はこのこと自体が特権的なことであり、まずもって知識を持っていることの特権性を自覚しなければならないのでしょう。

近代初頭のイギリスの哲学者フランシス・ベーコン(Francis Bacon,1561-1626)の言葉に、「知は力なり」(Ipsa scientia potestas est)という有名な一節があります。

確かに「知は力」なのですが、それは諸刃の力ということを決して忘れてはいけないのかもしれません。知識を持つことは、偏見を持つことであり、損失でもあるのでしょう。その意味で、「学ぶ人」は常に、自分たちが得た知識の特権性を自覚し、そして解体した上で、それを再構築していかなければならないのだろうと思います。

スピヴァク自身は、サイードが教鞭をとったコロンビア大学の教授として精力的に活動しております。その意味ではまさに「特権的な」知識人のひとりであり、そのことをたえず、自覚しながら、学問を行じております。その一方で、インドの最下層の社会に入って活動も行っております。しかし、どちらか一方に対して「べったり」しているわけではなく、そのただ中で「矛盾」を実感しながら、思索し、行動しているとのこと。

現実世界の「矛盾」なんて、そうそうに解決できる問題でもありませんし、分かりやすく「整理」できる対象でもありません。

しかし、それを「物知り顔」で「整理」してみせたとき、「語ることのできない」存在は「語ることのできない」ままなのかもしれません。

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