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幸不幸を問題にすること自体が、結局はまったくばかげたことなのだ

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 自分の人生を外からざっと眺めてみると、とくに幸福であるようには見えない。しかし、いろいろと迷いはあったとはいえ、不幸だったとはなおさら言えない。こんなふうに幸不幸を問題にすること自体が、結局はまったくばかげたことなのだ。なぜなら、私の人生のどんな不幸だった日々でさえ、数々の楽しかった日々よりも捨てがたいように思われるからだ。ある人間の生涯において、避けがたい運命を意識して甘受し、良いことも悪いことも充分に味わいつくし、外部からの運命とともに、それよりももっと本質的で、偶然のものでない内面的な運命を努力して築きあげることが重要であるとすれば、私の人生は貧しいものでも悪いものでもなかった。外的な運命は、すべての人びとと同様に私の上を避けがたく神々の定めるままに通り過ぎて行ったけれど、私の内面な運命はなんといっても私自身がつくったもので、その甘さも苦さも、当然、私に与えられたものであるから、それに対する責任は、私ひとりで引き受けようと思っている。
    --ハイネ(フォルカー・ミヒェルス編、岡田朝雄訳)『地獄は克服できる』草思社、2001年。

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「神経衰弱とストレスのデパート」とその内面を評されるヘッセ(Hermann Hesse,1877-1962)の言葉はどことなく、ほんものの優しさと力強さを秘めているようで、その言葉は、まさに池波正太郎(1923-1990)の描く『鬼平犯科帳』を彷彿とさせる人間論の開示ではないかと思う宇治家参去です。

ちょうど動物園行きが雨天順延となってしまいましたので、今日は日がな一日、午前中はレポートの添削、午後から博士論文の手直し……と作業三昧でしたが、作業をやるとこれが「ループする」というやつで、同じ言葉、言い換えた言葉、概念、典拠……さまざまなアイデアが頭の内側で回るメリーゴーランドの馬のようで、内側から狭い頭蓋骨と馬がマア接触するような感覚になります。

しかし、そのメリーゴーランドの馬が駆けめぐるうちに、バターになってしまうとサンボが成仏ということで、一山越えたな!という手応えに変換されるのが不思議なところですが、約10頁分、とりあえず稿了ということで、おそらく、これ以上やっても「今日はダメだな」ということで、明年度の仕込みでもちょいやっておこうと、再度、遠藤周作(1923-1996)の『海と毒薬』、ドストエフスキー(Fyodor Dostoyevsky,1821-1881)の『地下室の手記』を交互に読んでおりましたが、細君からは「お前ェ、仕事(=研究)してんのか?」という冷たい視線を背に浴びながらなんとか読了です。

細君からしてみると、本を読んでいる=遊んでいる、という解釈が成立するようで、マア正鵠を得ていなくはない批判であるのも承知ですが、それがそれですべてではいけれども、ひょっとすると池波正太郎が聡明と伝えられる徳川五代将軍・徳川綱吉(1646-1709)を「学問に淫している」と評したが如く、自分自身もひょっとすると「書物に淫している」のではないかと悩むところもあります。

しかしながら、『海と毒薬』、そして『地下室の手記』に加えられた批判……すなわち前者は国体的な復古論者からは「美しい日本(文化)を売った売国奴」、後者はルミナスな啓蒙論者から「ヒューマニズムを説くうえで、人間の闇の部分に光を入れる必要はない」というそれですが……に対して、マア、それはそれで「ちゃんちゃらオカシイや」などと思う心がどこかにあるのも感じますので、まだ「書物に淫している」段階にまでは達していないのだろうと思います。

『沈黙』で徹底的に「和服のキリスト教」を模索した遠藤には、単なる「戦犯容疑者のつるし上げ」という発想は皆無であり、『カラマーゾフの兄弟』で「人間の黒白(こくびゃく)」を描いて見せたドストエフスキーにとってみれば、その黒白があってこそ「生きてゐる人間」なのだろうと思う次第です。

さて本日。
絵本に夢中であった息子殿からも、怪獣ごっこ(乃至は、最近は「アニマル・カイザー」にもはまっているので、アニマル・カイザー・バトルごっこ)のオファーもなく、「今日はうまくスルーできるかな」などと思っていた矢先、息子殿が寝るチョイ前に、「そういえば、今日、パパと遊んでいなかった!」などといやなことを思い出したもので、軽くバトルごっこです。

子供はたのしいのでしょうが、相手はつかれるわけで、そしてナイーヴな小説の記憶が脳裏をかけめぐるわけで、一日がクローズです。

ともあれ、ヘッセのいうとおり、苦楽共にあわせて「外的な運命は、すべての人びとと同様に私の上を避けがたく神々の定めるままに通り過ぎて行ったけれど、私の内面な運命はなんといっても私自身がつくったもので、その甘さも苦さも、当然、私に与えられたものであるから、それに対する責任は、私ひとりで引き受けようと思っている」としていくしかありませんね。

人間という生き物、ともすれば、原因を外的な運命だけにおしつける、ないしは、徹底的に内面化への道におしつける……そういうフシがどこかにありますが、現実にはそのどちらかだけではありません。

その両者と向かい合いながら、そして時には休憩しながら、「我が道」を歩むところに偉大な成果が生まれてくるのだろうと思うわけですが……。

どうやら、細君に云わせると、宇治家参去の場合、どちらかといえば「休憩」の時間が多いようで、それが頭痛の種だとか。

とりあえず、本日は、日本では馴染みの薄いブラウン・ビールに酔いしれながら睡眠への旅路へつこうかと思案する次第です。

Leffe Brown、ベルギーのアビィ・ビールですが、この適度にローストされた麦芽の香ばしさがなんともいえません。

肴はちょうど程良く咲き始めた君子蘭。

美しい春の訪れを告げているようです。

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コメント

勉強しろよ!という批判を受けつつもついつい人ブログを読んでしまう時間をつぶすミスター煩悩うへのです。

さて、今日はヘッセについて言及されていますが、ヘッセはわが心の師匠であります。私事ながら実存主義的な悩みに振り回されて、そのまま地球の引力外へと飛ばされそうになっている時の彼との出会いは忘れられません。もし、「車輪の下」に「荒野のおおかみ」に出会っていなければ、ハンスの如く川に流れていただろう事は間違いありません。君はまだヘッセから抜け出せないのかい?なんてよく言われますが、抜け出すつもりもなければ、抜け出すこともできません。いつまでも青臭く生きるのです。

さて、せっかくなので宇治家さんに聞いてみたいことが。遠藤周作ってどうですか?彼の文章が素晴らしいこと、並びに素晴らしい作品があるのは異論の余地はないのですが、無論「美しい日本(文化)を売った売国奴」なんて批判はどうでもいいのですが、彼の文章からどうしても偽善的なものを滲みとってしまうのです。私自身宗教学は現在進行形で入り口立っている程度でしかありませんので、ぜひ宇治家さんに遠藤の作品に書かれる人間の内面性についていかにお考えか聞いてみたい。遠藤的ステレオタイプ人間性の描写に対して、僕個人としては人間ってもっと複雑じゃないかな遠藤さん!などとおもってしまう次第なのですが。。。

投稿: うへの | 2009年3月 7日 (土) 09時13分

うへのさんゑ

いえいえ、わたくしの方こそ、ナイス煩悩!って感じで、煩悩即菩提を目指しながらも、他事に時間を費やす宇治家参去でございます。

しかしながら、マア、それぐらいで人間という生き物はちょうどいいのかな?などとどこかで自己肯定しながら生きていくぐらいがちょうど善いのかな?などと思う次第です。たしかに何かに集中しながら脇目もふらず真剣勝負というのも契機としては必要なのですが、それだけでもねえ……という余剰が大切だろうと酒を呑みながら……という具合です。

私事で恐縮ですが、ヘッセをまともとに読み始めたのは、18を超えてからです。
最初の学部がドイツ文学専攻課程だったこともありますが、ふと読み始めると、ぐんぐんひっぱられ、しまいには、エッセー、絵画集までひもといたのがよい思い出です。現代ドイツだとやはりヘッセとトーマス・マンは読まざるを得ないな……と思います。

18以前は文学など読んだことが殆どなく、ルポルタージュばかりでしたが、それも今から振り返ってみるならば結果としてはよかったかな……などと思います。

で私事ついでにうへのさんのヘッセといのうが、時代小説になりますが私の場合は、やはり池波正太郎であり、哲学でいくとレヴィナスなのかなと思いあたるわけで、そのふたりによって、地球の引力に留めてもらっていると日々実感します。

もひとつ私事ついでにですが、「青臭い」といえば、過去の日記にどこかで書いたかも知れませんが、ガブリエル・マルセルだかヤスパースを読んでいたときに先輩から「青臭いな」といわれた記憶があります。


で……、遠藤周作ですが、比較的「好き」なので、遠藤研究を無視した好意的解釈および印象批判になりますが。

まずご指摘のとおり、文体と構成(内容・筋書き)は計算され尽くされたように「完成」された作品であることは間違いないなと思います。エッセー(実はエッセーの数もかなり多いのですが)なんかも同じく完成された作品がほとんどです。

しかし、これはひょっとすると、江戸時代に夢中になった滑稽本に由来する文体と構成の完成度なのかなと思う次第で。

それと同時にもうひとつの側面としての「完成されたもの」(それをステレオタイプと評して良いのかも知れませんが)から逸脱する余剰な部分が狐狸庵先生としての遠藤の作品にでているのかな……その両者で全体というわけですが……と、そう評価してしまいます。

信仰としては母・郁の影響でカトリシズムを選択しますが、それはきっかけにすぎず、上智でのカトリック寄宿舎での経験(フランスのネオ・トミストの吉満義彦が学監をしておりましたが)とか、日本的なるものとの退治で、信仰に対する違和感(結論としては最後には地盤を固める方向へ進み、『深い河』でひとつの局面を迎えますが)、日本・日本人への違和感とそして自分も日本時であるという違和感の中で、自己の信仰を打ち立てていきます。その活字化がひとつの創作となり、完成度の高さ(三田文学の影響かしら?)のなかで、ステレオタイプをえがきつづけていくのですけれども、それはひょとするとひとつの戦略としてえがきつづけたのではないだろうか……そう自分自身としては受けとめております。

あえてステレオタイプにこだわることで、そこから逸脱する余剰な部分を、読み手に委ねているのかな……『沈黙』にせよ『海と毒薬』にせよ……あえてそうしているのかな?などと解釈してしまいます。本人もそうした問題を終生かかえつづけるわけですが、あえて戦略的に完成させているのでは?などとおもう宇治家参去です。


情況に流されていしまう日本人に対して、倫理的規範を根本的な原理とするキリスト教との対峙をたしかに描いており、一見すると、それは単なるキリスト教優越主義・欧米優越主義ですし、描かれている人間達はひょとすると「血の通わない」作業仮説上の日本人なのかもしれません。

しかし、それが真意であるとすれば、信仰者として遠藤は、イザヤのような警世的預言者にならざるを得ないのですが、人間・遠藤周作はどうもそうした預言者の立場をとらず、生活者の視線を大切にし続けてきた……という状況をみてしまうと、そう思う次第ですが……。


……って、かなり実はのみながら、かいておりやしてすいません。
この問題は実は重要な問題ですから、後日『沈黙』、『海と毒薬』を材料にエントリーとしてアップしていこうと思いますが、とりあえず版ということで……。

投稿: 宇治家 参去 | 2009年3月 8日 (日) 02時00分

レスポンスありがとうございます。
アンテナ全開にしてもう一度読み返してみようと思います。

投稿: うへの | 2009年3月 8日 (日) 08時27分

うへのさんゑ

いえいえ、すいません。時間のあるときでよろしいかと。

今日は遠藤のエッセー集『ぐうたら社会学』(集英社文庫)をぱらぱらとめくっておりましたが、これがまた抱腹絶倒で頗る面白い作品です。

作家の場合、実は本業よりもこうした副業的作品のなかにキラリと光る人格とか才能っていうものがあるのかもしれませんね!

投稿: 宇治家 参去 | 2009年3月 9日 (月) 02時02分

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