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【覚え書】遠藤周作「人間の顔」、『ぐうたら社会学』集英社文庫、1979年。

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東京は、まるで初夏のような汗ばむ陽気で、仕事の合間に食べた冷やし中華に日一日と季節が移り変わっていくところを実感する宇治家参去です。

今日も考える時間がないので、考えるヒントをということで、【覚え書】。

必要なことは、ひとの有り様をとやかく言う前に、自分自身の営みと正面から向かい合っていくしかないのかな……仕事をしつつ切れそうになりつつ、きれるとダサイよなということで、遠藤周作(1923-1996)が精神のヒダに染みこんでくる深夜です。

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 人間の顔
 アダムがはじめて神さまの手で作られた時、それは今の人間とはちょっと、ちがっていた。というのは、アダムの眼と目玉とは顔にはなくて両手の上にあったからである。
 したがってアダムは自分の表情のうごきをいつでも見ることができた。彼は天国で一人ぼっちだったから、はなはだ寂しかった。その寂しそうな自分の顔もアダムは両手の眼ではっきり見ることができたのである。
 「私はうかぬ顔をしています」
 とアダムは神さまに言った。
 「寂しいのです。仲間を作って下さい」
 よし、よしと言うわけで、神さまはアダムのために一人の女を……つまりエバをこしらえた。
 アダムは大喜びでエバをつれて毎日、天国の野山を遊びまわった。そのうち彼の心に恋心が育まれてきた。
 そこで彼はある夕暮、大きな木の下でエバに恋をうちあけた。
 「ぼかァ、君が好きです、君の目は花の上においた朝露のよう。君の肌は牛の乳よりももっと白い」
 とか何とか、今の我々とはそう違わんキザあなことばでエバを口説いたのである。だがその時、悲しいかな、手の上の彼の眼は、そんなキザあなことを口に出しておる彼自身のキザあな顔を一つ残らず見るのであった。
 「キャッ、ああ恥ずかし」
 とアダムは思わず叫んだ。
 「背中にジンマシンが起きそうだ」
 うっとりしていたエバはびっくりして起きあがり、
 「いやあね、ムードぶちこわしだわ」
 こうしてアダムの恋は失敗に終わろうとした。それというのも自分のキザあな表情を自分で見てしまったからである。
 「神さま、私はダメです」
 アダムは事情を神にうちあけた。
 「自分で自分の顔が見れるというのは、人間にとって一番つらいことです」
 「そうであったか。ちいとも知らなかった」
 こうして神様はアダムの眼を掌(て)から顔につけかえたのである。ここに眼をおけば自分の顔もアダムはみることができないからである。
 この興味ふかい、象徴的な話は、かのドイツのうんだ文豪ゲーテが創ったものではなくて、わが孤狸庵先生が書いたものであるが、味わえば味わうほど、味のふかい話であるなあ。
 人間なにが幸福といったって、自分の顔を自分でみることができぬくらい幸福なことはない。いかなる醜女(しこめ)もそれゆえに、私もまんざらじゃないとウヌぼれることができるし、そして男は男で女性を口説く時のあのキザあなおのれの顔を見ないですむからである。
    --遠藤周作「人間の顔」、『ぐうたら社会学』集英社文庫、1979年。

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