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私を呼び求める声に対して「私はここにいます」(me voici)と答えること

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 おのれの存在する権利について責任を引き受けると言っても、それはなにか匿名的な法とか、なんらかの司法的実体といった抽象物に準拠してのことではない。そうではなくて、他者に対する恐れゆえに責任を引き受けるのである。私が「世界内部に」あること、あるいは私が「陽の当たるところに席を占めている」こと、私が自分の家にいること。それはすでにして私によって弾圧され、飢餓に追いやられた他の人間の所有に帰すべき場所を纂奪したことではないのだろうか。志向的にも意識的にもまったく潔白であるにもかかわらず、なお私が実存していることが原因でもたらされるかもしれない暴力や殺害のすべてについて私は恐れを抱く。この恐れは私の「自己意識」の背後を通って、心の安らかさ、すなわち繰り返しひたすら存在に固執することへと肉迫する。この恐れは他者の顔から私のもとに到来する。隣人の顔の極限的な直截性、それは現象の造形的な形式を引き裂く。死にさらされてあることの、無防備な直截性。あらゆる言語、あらゆる身振りに先立つ、絶対的孤独の奥底から私へと差し向けられるひとつの訴求。差し向けられた要求あるいは意味された命令、私の現前と私の有責性の審問。
 他の人間の死に対す恐れと有責性。他者の死に対するこの有責性の最終的な意味とは、逃れ得ぬものを前にしたときの有責性である。最初の最後において、他の人間をひとりで死に直面させてはならないという責務である。死に直面したとき--私を求める顔の直截性そのものが、無防備にあらわになり、死との直面をあますところなく示すとき、ぎりぎりの最後に「他の人間をひとりで死に直面させないこと」。それは、他者が死に直面しているとき、私にはどうすることもできないこの対面のときに、私を呼び求める声に対して「私はここにいます」(me voici)と答えることに他ならない。おそらくここに社会性の秘密がある。それはなんの見返りもなんの功利性も期待できないぎりぎりの場面で、なお隣人を愛することである。いかなる現世的欲望を持つことなく隣人を愛することである。
 他者に対する恐れ、隣人の死に対する恐れ、それは私の恐れではあるが、いかなる意味でも私のための(pour moi)恐れではない。その点で、この恐れは『存在と時間』が情状性について行ったみごとな現象学的分析とは、はっきり別のものである。
    --エマニュエル・レヴィナス(内田樹訳)「心の疚しさと冷厳なるもの」、『観念に到来する神について』国文社、1997年。

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市井の仕事がマア準夜勤ですし、学問の仕事で家を空けることが多いので、ふつうのお父さんよりも実は子供との接点が少ないのは事実なのですが、それでもときどき子供の様子を観察しておりますと、驚きとか発見があります。

一緒に何かを別にしなくてもよい……それは一緒に遊ばなくてもよいという意味ではありませんが……とまではいいませんが、一緒に何かをしなくても、動物的な意味合いでの縄張りのような空間を共有することが彼にとってはどうやら大切のようです。

一番嫌なのが、そうした空間から誰かが離脱することのようで、それならば、一緒に怪獣ごっこだとかアニマル・カイザーごっこだとかを我慢してでも、私が仕事部屋で仕事をしていて、本人は居間でひとりで遊んでいる方が気分的には楽なようで、空間を共有するということは実は人間の世界において大切なあり方なのかも知れません。

哲学とか思想、はたまた法学とか経済学的見地まで、はば広く、いわば学問的なものの見方で、それを表現するならば、それは「人間の社会性」といってよいでしょうが、社会性と聞いてしまいますと、それは「何を共同してやること」という意味での「共同性」に注目しがちですが、人間の社会性を能動的な共同性のみに限定してしまうのは不幸かも知れません。それは何も能動的な共同性を否定しようとか一段低い価値体系に組み込もうとかそういう発想ではありません。

ただ、それだけではないだけであって、まさに共同というように、何かを為す前に「共に在る」という原初の事実を丁寧に見出す必要があるのでは……、子供の様子をみているとフト考えてしまいます。

これは倫理学、道徳〔学、道徳〝学〟として〝学〟を強調するのはカント(Immanuel Kant,1724-1804)ぐらいですが〕に関してもひょっとすると同じかも知れません。

両者とも人間の共同存在としてあり方に関する学問であり、前者がどちらかといえば、その命題を検討する立場とすれば、後者はどちらかといえばその命題を薫育する立場の嫌いがありますが、そうした性質の違いがあっても尚、共通しているのは、うえでみたような「何かを為す」という部分に注目しがちな発想ではないかと思います。

倫理学は道徳のように「~すべし」「~すること勿れ」と訓戒を垂れることはありません。しかしそれでも「~すべし」だとか「~すること勿れ」の妥当性を問う立場であるとすれば、そうした感性と深くリンクしているフシがあり、カントの定言命法を引くまでもなく、近代の倫理学ではそうした傾向が顕著ですから、あまり人気がない……教えていてなんですがといったところです。

カントは大好きでカントが悪いということでは決してありませんし、それはカントではなくカント主義者の問題なのだろうとみています。ちなみにそうしたあり方を全否定し、ケセラ・セラと囀り機能主義でかたづけてしまおうとする現代倫理学にもマア違和感があるわけですが〔ローティ(Richard Rorty ,1931-2007)は別ですが〕、いずれにしましても、そうした知見に耳を傾けながら、人間を見ていかないと、ものの見方そのものが生きてゐる人間そのものを矮小化させてしまうのかもしれません。

そうした声にならぬ声、表現にならない空間の匂いと責任……そうした問題を木訥な言葉で紡ぎ出しているのがおそらくレヴィナス(Emmanuel Lévinas,1906-1995)の言葉かも知れません。

能動的所作の生き物として人間を見てしまうと「おのれの存在する権利について責任を引き受けると言っても、それはなにか匿名的な法とか、なんらかの司法的実体といった抽象物に準拠して」戦略的に歩き出してしまうのかも知れません。

「私が「世界内部に」あること、あるいは私が「陽の当たるところに席を占めている」こと、私が自分の家にいること」を深く見つめ直すことが大切なのでしょう。

他人に対する在責性とは、人工的に形成された訓戒ではなく、人間という生き物の顔に刻まれた消しがたい刻印なのですが、それは頭で理解するというよりも、人間世界のただ中で、自分自身の感覚、生きている実感として立ち上がってくるものかもしれません。顔に在責性が刻印されているから応答しないさい!と訓戒たれてもだれもそれを内面の掟にはしませんから。

他者の放つ醜くも崇高な存在そのものに戦(おのの)くしかないのかもしれません。そのことにより、ひとは、「差し向けられた要求あるいは意味された命令、私の現前と私の有責性の審問」を自分の原理とすることができるのでしょう。

さて……。
本日はゆっくり休みつつ、自宅にて学問の仕事をしておりましたが、ちと所用があり、昼過ぎに自宅を出かけようとすると、家の前で近所の子供と遊んでいた子供が声をかけてきました。

「パパ、どこへいくの?」
「郵便局へ行ってから、買い物だよ」
「お仕事じゃないから、帰ってくるよね!」
「帰ってくるよ」

彼の言葉に耳を傾けますと、「私を求める顔の直截性そのものが、無防備にあらわになり、死との直面をあますところなく示すとき、ぎりぎりの最後に「他の人間をひとりで死に直面させないこと」。それは、他者が死に直面しているとき、私にはどうすることもできないこの対面のときに、私を呼び求める声に対して「私はここにいます」(me voici)と答えることに他ならない」と思ってしまいますので、「私はここにいます」(me voici)と答えるほかありません。

まさに答えるほかならない……それが在責性の端緒なのでしょう。

……そう言葉をかけると不安が払拭されたようで、友達の輪へ戻っていきました。
自転車で「いってっしゃ~い」という言葉を背にうけつつ、聞こえてくる子供の言葉。

「ぼくのねエ、パパなんだ!」

いつまでそう自慢?してくれるのかわかりませんが、「共に在る」人間としての倫理学を生活のなかで諭してくれるのは実にありがたいものです。

存在することの光明に恐れすら抱くわけですが--

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この恐れは他者の顔から私のもとに到来する。隣人の顔の極限的な直截性、それは現象の造形的な形式を引き裂く。死にさらされてあることの、無防備な直截性。あらゆる言語、あらゆる身振りに先立つ、絶対的孤独の奥底から私へと差し向けられるひとつの訴求。差し向けられた要求あるいは意味された命令、私の現前と私の有責性の審問。
    --レヴィナス、前掲書。

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人間関係とは、あらゆる造形的な形式に先立つものかも知れません。

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