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訳に立たないものを求めようなどとは、誰一人として同意しないから

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(85a)親切の定義と説明 次に、人々は誰に対し、どのようなことがきっかけで、また自分自身がどのような状態にある時、親切心を持つかという問題であるが、これは親切を定義したなら明らかとなることであろう。
 それでは、それを持っている者が親切心があるとされる所以の親切であるが、それは、困っている人に対し、何らかの見返りとしてでもなければ、手助けする人自身が何かを得るためでもなく、かの者になにか役立つことが目的で手を貸すことである、としておこう。だがその手助けも、必要の程度が非常に大きい者に対してなされる場合、或いは必要としているものが重要で手に入るのが難しいとか、必要としているのが重要かつ困難な時期であるといった場合、或いはまた、手を貸すのが彼一人だけであるとか、彼が最初であるとか、彼の手助けが特に必要とされているという場合には、大きなものとなるであろう。
 だがここで言う必要とは欲求のことである。そして欲求の中でも特に、手に入らない時には苦痛を伴うようなものへの欲求である。そのような欲求としては、例えば死のような欲望がそうであるし、また身体が痛めつけられている時や危険に曝されている時に抱く欲望もそうである。なぜなら、危険に曝されている者や苦痛の中にある人は何かを欲し求めているからである。それゆえ、貧乏な時や国外追放になった時に力になってくれる人々は、たとえそれが僅かな手助けであっても、その必要が深刻なものであるとか、手助けの時期が当を得ているという理由で、親切な振舞いをしたことになるのである。例えば、リュケイオンで筵(むしろ)を与えてくれた人がそうである。それゆえ、当然のことながら、手を貸す際には、相手が必要としているのと全く同じものにおいてそれを行うのが最善であって、もしそれができない時には、それと同程度か、もしくはそれより大きなものにおいて行われなければならない。
     弁論の進め方 さて、いかなる人に対し、いかなることがきっかけで、また、自分がどのような状態にある時に親切を行うことになるか、は明らかになったのであるから、したがって弁論に当たっては、これをもとにして、一方の人々については、そのような苦しみと必要(困窮)の中に現にある、もしくはあったということが、他方の人々については、そのような逼迫した状況にあって、そのような手助けをしてきた、もしくはしているということが、はっきりするようお膳立てすべきであるのは言うまでもない。
 一方、親切に振舞っている人々から看板を取りはずし、彼等を不親切な人間に仕立てることは、どのような議論によって可能かということも、また明らかである。つまり、彼らは自分自身のために手助けをしている、もしくは手助けをしたのだ、ということか(定義によれば、このことは親切ではないとされたのである)、或いは、たまたまそうするめぐり合わせになったのだとか、強制されてそうせざるを得なかったのだとか、彼らは、知ってか知らずかにはともかく、借りを返しただけであって、親切を与えたのではない、などということを明らかにすればよいのである。なぜなら、最後の場合は、知る知らないのいずれにしても、それは事実上の見返りであり、したがって、この点から見ても親切心とは言えないからである。
     親切のカテゴリー また、親切については、すべてのカテゴリーにおいて考察しておく必要がある。というのは、示された好意かどうかは、それは具体的な何(実体)であるかとか、これだけのもの(量)であるかとか、このようなもの(質)であるかとか、何時与えられたか(時)とか、何処で与えられたか(場所)、など理由で決まるからである。
     不親切 もし、必要とされているより小さな手助けも与えようとしなかった、とか、敵に対し、われわれに対するのと全く同じか、またはそれに匹敵する位にか、またはそれより大きい手助けを与えた、というのであれば、それは親切心を欠いていることの徴である。なぜなら、それらの援助がわれわれのためを思ってのものでなかったことは明かであるから。また、役に立たないことを知りながらそれを与えるという場合も、そうである。なぜなら、訳に立たないものを求めようなどとは、誰一人として同意しないから。
    --アリストテレス(戸塚七郎訳)『弁論術』岩波文庫、1992年。

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昨年から通信教育部のレポートを見るようになり、先月ではや1年を迎えましたが、昨年の記憶を振り返るならば、この3月は比較的件数が少ないという印象が色濃くあったのですが、今年は4月にレポート課題の内容が更新されることがりゆうになっているのでしょうか……昨年にくらべると若干件数が多くなっていることに驚きと喜びを感じる宇治家参去です。

人間という生き物は、アリストテレス(Aristotle,BC.384-BC.322)の言うとおり、驚きと喜びがあってこそ、そこから探究がはじまるというものですから、予想外の出来事ですけれども、大量に送付されてきたレポートと向かい合いつつ、そこから何か驚きと喜びを発見したいものでございます。

来週はチト忙しいので頑張って1/5ほど一気に添削すると夕方……。
日中、論文執筆ができなかったので、夕食そして夕食後の子供との怪獣ごっこだかアニマル・カイザーごっこだかで体力消耗後に課題に取りかかろうと思案していたわけですが、見事に頓挫です。

全っき他者からすると……ただしレヴィナスにおいてはすべての存在が全っき他者なわけですがそれはひとまずおいておき日常生活で使用されるレヴェルでの言語運用という意味での……それは、それで「マア、どうでもいいや」って事件であり、お恥ずかしい話で古典落語のネタにもなりませんが、うちの一人息子殿が肴……もとい……魚の骨を喉に詰まらせてしまい、民間療法?をためしてみますが……マアとれずというやつで、病院へいってきました。

すでに19時をすぎておりますので、地域の病院にいくわけにもいかず……。

ノブレス・オブリージュ(noblesse oblige)を気取るまでもなく、この程度で救急車呼ぶ輩はいねえだろう……というのが武家の常識でございますから、地域の救急医療ダイヤルに電話をかけ、担当医が在籍している病院を紹介してもらい、K大学大学病院へ直行です。

門外漢なのでおどろくところですが、案内されたのは、電話で言われたとおり耳鼻咽喉科で、先生に診察していただくと、

「奧まで入っているようなので、鼻からナニをいれて……」

横で聞いている息子殿にもその様子が理解できたのでしょう……久し振りに120%充填した波動砲@「宇宙戦艦 ヤマト」の如く抵抗の豪泣を展開しましたので、

「だいたい2-3日でほとんどとれますから、炎症止めの薬なんかだしますから、様子みますか。それでもダメなら近くの耳鼻科で診察してもらってください」

……とのことにてクローズ。

安心した息子殿は俗に言う「泣き疲れ」たのでしょう……スヤスヤと眠り始めクローズ。

「結局骨はとれず、何だったんだ……?」

とポツリと言葉出てくるわけですけれども、

「難だったんでしょう」

と細君がいう。

ともあれ、こういう気持ちが釈然としないときは、アリストテレスの『弁論術』が一番です。アリストテレスはその主著『形而上学』の描写・発想の進行で見られるように、師匠・プラトン(Plato,BC.427-BC.347)とちがって、どうしようもない感情をきちんと整理して議論の俎上にのせてくれるのが実にウマイ哲学者でございます。

もちろん近現代の哲学者からしてみますと、それでもその議論は、広大でアイマイ過ぎると評価されてしまいますが、その著作に向かい合うと、そのおおらかさは、人間の感情を切り刻んで排除せず、うまく言葉にならない感情を言葉に導いてくれる一抹の優しさを含んでいるんだよなと実感すること度々です。

親と子の間で、親切・不親切ということが議論になるということほど悲しいことはないんだよな~と整理しながら、それを素で同苦しながらやっていくことができるようになるなかで、実は、全っき他者に対しても、素で親切になっていくのかな~などと願いつつ、気が付くと「土佐鶴」に手が伸びていました。

論文一行も進まず。
ただし、子と親の親愛の情は一行ぐらいはすすんだのでしょう。
しかしの一行は万巻の書に代え難い一行なのかもしれません。

それは実は親子の問題に限られた地平だけではないのだろうと思います。
人間は社会的存在としてあらゆる関係性という全体のなかで、自己自身と他者自身を向き合わせながら生きている生き物ですが、その生活の中で、関係性のなかで要求されてくる声なき声に少しだけ耳をかたむけると、レヴィナス(Emmanuel Lévinas,1906-1995)なんかのいう他者の責任要求なんかをすこしばかり理解でき、孟子(Mencius,BC.372-BC.289)のいようなかたちで、はっとしてなにか動き出してしまう、チト美しいあり方が現出するかなア……などと思うところでして。

「それでは、それを持っている者が親切心があるとされる所以の親切であるが、それは、困っている人に対し、何らかの見返りとしてでもなければ、手助けする人自身が何かを得るためでもなく、かの者になにか役立つことが目的で手を貸すことである、としておこう」。

くどいようですが、別に親切をしたとも思いませんし、結果論からいうなら病院に連れて行かなくても骨はとれず……ならば病院に連れて行く必要もないと判断して、そのことを実践してそれが不親切かどうかというそれもどうかなと思うわけですけれども、いずれにせよ、大切なのは、生活の中で、目の前で難儀しているその当人に対して、どれだけ眼差しとして歩み寄っていくことが出来るのか……またひとつ試された思いがします。

〝骨折り損のくたびれもうけ〟という言葉は功利主義的経済環境においては蛇蝎のごとく忌み嫌われているあり方なのでしょうが、実はその〝骨折り損のくたびれもうけ〟というのは、なんとなくここちよい疲労感でもあるわけなんですよね。

「労苦と使命の中にのみ 人生の価値は生まれる」という言葉がありますが、難儀をさけてうまく立ち回っていくのか(=それは要領の良いことでもないし、さけるべき難儀も現実には存在する事なんて承知の助ですが)、それとも、そこに人生の意味を見出していくのか……ひとつ考えさせられた宇治家参去です。

ただし……「死して屍拾う者なし」@大江戸捜査網ぢゃなくて……、
前述した民間療法……骨を喉に詰まらせたときに、ご飯をのみこむ……とは俗説でかえって状況を困難にする一か八かのあり方のようでございます、耳鼻科の先生がおっしゃっていました。

やってはいけない。

……のだと。

ちなみに「そういうときどうすればいいのですか、初期行動として」

……と聞くのを忘れてしまったのが、残念なところです。

ホワイトデーのために準備した蘭の花が今を盛りとばかりに華開いております。

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