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振鈴の音をきいて、細君が次の間から……あらわれない!

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 凝(じつ)と見まもる佐嶋与力へ微笑を返し、平蔵は銀煙管へ煙草をつめながら、
 「この御役目から解きはなしてくれたなら、どんなにか、のびやかな明け暮れになることか……」
 「……?」
 「なれど……」
 いいさして、深いためいきを吐いた口へ銀煙管をもってゆきながら、
 「なれど、兇悪なやつどもが蔓延(はびこ)る今の世に、この長谷川平蔵と、おぬしたちほどの盗賊改方が他に在(あ)ろうか。在るはずがない」
 慢心ではない。
 これは平蔵の自信であった。
 「わしはな、佐嶋」
 「は……」
 「もはや、すでに、死んだつもりよ」
 「何と、おおせられます?」
 「うふ、ふふ……」
 微かに笑った長谷川平蔵が、煙草盆の灰吹きへ、ゆるやかに煙管を落し、
 「この年齢(とし)になって、あれこれしたいと想うていた楽しみは、すべてあきらめたわ」
 佐嶋は両手をつき、面を伏せた。
 たとえ一瞬でも、戸惑ってしまった自分を恥じた。
 「もっとも、若いころのわしは、他人(ひと)の何倍も男のたのしみを味わってきたことゆえ、いつ死んだとて、おもい残すことの、先ずは無いと申すことよ」
 と、平蔵は傍(かたわら)の置棚(おきだな)から振鈴(ふりすず)を取って鳴らし、
 「いまのわしは、若いころの罪ほろぼしをしているようなものじゃ」
 つぶやくがごとくいった。
 佐嶋が、はっと顔をあげた。
 その長官のつぶやきに、かつてない哀しみのようなものが、ただよっていたからである。
 振鈴の音をきいて、久栄が次の間からあらわれた。
 「今日は冷ゆるな」
 と、平蔵が久栄へ、
 「女房どの。いわずとも、わかっていよう」
 「ただいま、支度を申しつけましてございます」
 「酒の後に、鶏(とり)の出汁(つゆ)で、熱く煮込んだ饂飩(うどん)がほしい」
 「まあ……」
 「どうじゃ、これは、おもいつかなんだであろう」
 久栄は笑いながら、庭に面した障子を開け、
 「ごらんなされませ」
 「おお……」
 朝から曇ってはいたが、白いものが落ちてこようとはおもわなかった。
 「障子はそのままにいたしておくがよい」
 「つもりましょうか?」
 「春の雪じゃ。人の足を困らせるようなまねはすまい」
 綿を千切ったような雪が、はらはらと降りてくる庭をながめつつ、長谷川平蔵がいった。
 「どうして、雪なぞというものが空から落ちてくるのか……ふしぎなことよ」
 庭の梅は、もう散っていた。
    --池波正太郎「春の淡雪」、『鬼平犯科帳 二十一』文春文庫、2001年。

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「どうして、雪なぞというものが空から落ちてくるのか……ふしぎなことよ」と夜空を見上げながらつぶやくことはできませんでしたが、仕事が終わって帰ろうとすると、雨が降り始めておりました。

今日は荷物が多く傘もなし。

「雨かよ!」って思うわけですけれども「どうして、雨なぞというものが空から落ちてくるのか……ふしぎなことよ」と呟くだけで、嫌な雨という事実が、自然を体感するひとときに変貌するのは……「ふしぎなことよ」でございます。

さて、結婚したのが2001年でしたが、マア池波狂というヤツですから、長谷川平蔵を真似て、その当初、振鈴なんかをならしたものですが、まったく反応がなく、鳴らし続けると、「近所迷惑だ」と怒られる始末で、振鈴は封印したままです。

もう十年もすると、ちょうど作中の長谷川平蔵と同年代になるわけですが、そのときには、風流に振鈴に反応してもらいたいナと思うわけで……そうするには確かにその仕込みが大切だよな……というわけで念入りに下準備に励むある日の宇治家参去です。

ちょうど本日、細君のご聖誕というわけで、「あれとあれがほしい」と前々から言っていたので(そのあれとあれが何だったかはすでに失念しているわけですが)、それはワタクシの仕事の都合上、後日ということになるのですが、当日にナニモナイというのもマズイよな……ということで、とりあえず、花の名前はわかりませんが鉢植えを購入し、雨のなか大切に持ち帰り、起きたら驚くように机の上にセッティングです。

これで10年後には、振鈴に反応してくれるように……なってくれるといいのですが、仕込みは上々、あとは祈って行動するのみでございます。

そのときは、多分……学生の博士論文の指導でもしながら……

 振鈴の音をきいて、細君が次の間からあらわれた。
 「今日は冷ゆるな」
 と、宇治家参去が細君へ、
 「女房どの。いわずとも、わかっていよう」
 「ただいま、支度を申しつけましてございます」
 「酒の後に、鶏(とり)の出汁(つゆ)で、熱く煮込んだ饂飩(うどん)がほしい」
 「まあ……」
 「どうじゃ、これは、おもいつかなんだであろう」
 細君は笑いながら、庭に面した障子を開け、
 「ごらんなされませ」

……となるわけなのでしょう、多分。

……と思い描きながら、今日は「よなよなエール」((株)ヤッホーブルーイング/長野県)でも飲みながら、まどろんでいきます。

しかし「よなよな」飲んでいるなア~。

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