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たとえ何事が起ころうとも、それから利益を引き出す力がわたしにはあるのだから

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 からすが鳴いて、不幸を告げ知らせたならば、きみはそれにたいする想像によって、自分を不安にしてはならぬ。むしろよく分別して、早速こう確信するがよい、「わたし自身に対しては何事も告げられていないのだ。ただ、わたしの滅びやすい肉体が、わたしのごくわずかな財産か、あるいはわたしの名誉が、わたしの妻か子に対して告げられているのである。わたしがそれをそうあせらせようと思えば、わたしにとってすべては幸福の予言となるであろう。なぜなら、たとえ何事が起ころうとも、それから利益を引き出す力がわたしにはあるのだから*。」
  * シエナのカテリナも同じように書いている、「勇気ある人には、幸福と不幸とは右手と左手のようなものです。彼はその両方を使うのです。」
    --ヒルティ(草間平作訳)『幸福論 第一部』岩波文庫、1961年。

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仕事のぐちのようになりますが、最近、市井の仕事へ行くと、連日アリエナイことばかりで、デラシネのフーテンを気取る宇治家参去としてもさすがに参るところで、ひさしぶりに「胃が痛い」とはこのことかと実感するわけですけれども、休み明けで出勤しますと、今日は、これまでの奮闘録のさらにうえをいく業務内容で、さすがにカラスは鳴きませんけれども、不幸の手紙とはまさにことことか思いつつ、お仕事です。
※ちなみに「からすが鳴いて、不幸を告げ知らせた」という譬えは、上記にある通り、ひょっとすると西洋伝播のイメエジかもしれませんね、探究はしてはおりませんが。

今日はさすがにこれまでの積み重ねがありましたもので、いろいろと不備・不具合に関する作業レポートおよび改善施策案をまとめて出勤したわけですが、その討議ができる暇もないほど忙しく……、一段落ついたところで内容を討議すべく、店長席へむかうと、帰宅支度のようで、マズイところみられたなっていうオーラ全開でしたので、「もういいや」って感じで、不要書類の始末にみせかけ、シュレッダーへ書類をぶちこみ、「お疲れ様でした」って見送り、そのまま休憩にいくと、うしろでオバチャンたちが、新人の悪口を言い合ってガス抜きしている模様で……。

ハイデッガー(Martin Heidegger,1889-1976)の『「ヒューマニズム」について』を読み、赤線を引っ張って、原典と対照しながら読むわけですが、頭に入らず。その談笑は?本人たちは小さな声で“囀っている”つもりなのでしょうが、知らぬは本人たちだけで、休憩室にひびきわたるほど大音量にて、当然、貴重な研究時間に魔が入る……という状況です。とりあえず、和文の入力はしましたので、途中且つコメンタリーなしですが、以下の通り。

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〔72 分野別の学問的諸学科の成立以前に立ち帰って、エートスの問題を考えねばならない〕
 「倫理学」が「論理学」と「自然学」と一緒に並べられて初めて登場するのは、プラトンの学派においてである。こうした分野別の学問的諸学科が成立するのは、思索を「哲学」へと変貌させ、しかも哲学をエピステーメー(学問)へと変貌させ、果ては学問そのものを学校や学校事業に属する事柄へと変貌させてしまうような時代において、なのである。このように理解された哲学を通り抜けて、学問科学が成立し、思索が過去のものとなってゆくのである。こうした時代よりも前の思索者たちは、なんらの「論理学」をも、またなんらの「倫理学」をも、ましてや「自然学」といったもののことなどを知ってはいない。けれども、それにもかかわらず、彼らの思索は、非論理的でもなければ、非道徳的でもない。「フュシス」〔「自然」〕に至っては、彼らは、あらゆる後代の「自然学」がもはや断じて達成することのできなかったような深さと広さにおいて、これを思索したのであった。ソフォクレスの悲劇作品の数々は、もしもおよそそうした比較を許されるとすれば、その発言の中に、「エーティク」〔「倫理学」〕に関するアリストテレスの講義よりも、もっと原初的に、エートス〔住ミ慣レタ場所・習慣・気質・性格〕という事柄を含蓄させているのである。ヘラクレイトスの一格言は、たった三語から成り立っているにすぎないが、その格言の言い述べていることは、きわめて単純明快であって、したがってその格言のうちからは、エートスの本質が直ちに明らかになるのである。

〔73 ヘラクレイトスの格言と、ヘラクレイトスに関するある出来事の物語〕
 ヘラクレイトスのその格言は、次のようなものである(断片一一九)。すなわち、エートス・アントローポイ・ダイモーン〔エートスハ、人間ニトッテ、ダイモーンデアル〕、と。世間のひとは、一般にこれを次のように翻訳するのが通例である。すなわち、「みずからの固有な性格は、人間にとって、みずからの守護霊である」、と。この翻訳は、現代的なえ方をしているが、ギリシア的な考え方をしていない。実は、エートスとは、居場所、住む場所のいことを意味しているのである。この語は、そのうちに人間が住んでいる開けた圏域のことを名指している。人間の居場所という開けた局面は、人間の本質へとふりかかってきてそのように来着しながら人間の近さのうちにとどまるものを、出現させるのである。人間の居場所は、人間がみずからの本質においてそこへと帰属しているゆえんのものの来着を含み、保持している。そうしたものが、ヘラクレイトスの語によれば、ダイモーン、すなわち、神というものなのである。したがって、あの格言が言い述べているのは、次のことである。すなわち、人間は、みずからが人間であるかぎり、神というものの近くに住む、ということ、これである。ヘラクレイトスのこの格言と一致するある出来事の物語は、次のようになっている。すなわち、ヘーラクレイトス・レゲタイ・プロス・トゥース・クセヌース・エイペイン・トゥース・プーロメヌース・エンテュケイン・アウトーイ・ホイ・エペイデー・プロシオンテス・エイドン・アウトン・テロメノン・プロス・トーイ・イプノーイ・エステーサン・エケレウエ・ガル・アウトゥース・エイシエナイ・タルーンタス・エイナイ・ガル・カイ・エンタウタ・テウース……〔ヘラクレイトスハ、見知ラヌ訪問客タチニ対シテ、次ノヨウニ語ッタト言ワレテイル。ソノ見知ラヌ訪問客タチハ、ヘラクレイトスニ会ッテミタイト思ッタ人タチデアル。近ヅイテミルト、コノ人タチハ、ヘラクレイトスガ、パン焼キカマドノソバデ、体ヲアタタメテイルノヲ見タタメニ、立チスクンデシマッタ。トイウノモ、ヘラクレイトスハ、ソノ人タチニ、勇気ヲ出シテ、モットナカヘ入ッテクルヨウニト、促シタカラデアッタ。トイウノモ、ココニモ神々ハイルノダカラ、ト言ッテ……〕。

  --マルティン・ハイデッガー(渡邊二郎訳)『「ヒューマニズム」について』ちくま学芸文庫、1997年。

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などと入力し、肺腑の奧まで煙草を吸ってから、後半戦に突入しますが、防犯上の理由から休憩エリアのシャッターを閉めなければならないので、ベンチでやすまれていたお客様に「大丈夫ですか?」と声をかけると、「なんだテメエ」と胸ぐらを掴まれるわけで……できることなら殴ってもらえればある意味で後処理が楽なのですが……その御仁、酔っ払って寝ていたようで、フト我に返るとスゴスゴと退散してくださり、無事に業務が完了で……作業日誌に「特記事項無」と記して帰宅の途につく次第です。

確かに、生きている世界というのは、ときおり、「お前人間か?」と誰何したくるのが実情です。しかし、それと同時に不思議なことにぶっちゃけ、だれかのことを悪いおうとか、こいつなんなんだといおうという気力すらおこならないのも現実です。

しかし諦念じゃないんですね。

おそらくへいへんぼんぼんにアカデミズムだけでやっていると「なんなんだ!」と弾嘩したかもしれません。

しかし不思議なことに、胸ぐら掴まれようが、悪口を聞こうが、フェードアウトしていく店長を横目で見ようが、「責めよう」とは思えない自分に、この世の中はしてくださったのかと最近は感じるようになりました。

もちろん、システムの不備とか、構造的暴力に由来する排除の構造に異議申し立てをすることは切実に必要です。

しかし、それを批判するだけではかわらない。

人間の波にもまれるなかで、たえずその人間を人間として取り扱い、そして共に歩み出す方向を模索しない限り本質的には人間共和の世界なんて訪れないのではとこの1-2年切実に痛感する宇治家参去です。

批判は批判として大切です。
しかし、、一〇〇点満点の模範解答的追及という名の錦の御旗を立てるだけではものごとはかわらない。そしてその旗を立てることによって不可避的な人間/非人間というさらなる分断を招いてしまうのが実情なのでしょう。

おれは当事者ではないよって安全弁をもうけるだけでおわっちゃうのはもうたくさんだなと思う毎日です。

人間の人間らしさ……いいかえれば人間の神性(東洋的文脈であれば「仏性」)はどこに存在するのでしょうか……。

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〔ヘラクレイトスハ、見知ラヌ訪問客タチニ対シテ、次ノヨウニ語ッタト言ワレテイル。ソノ見知ラヌ訪問客タチハ、ヘラクレイトスニ会ッテミタイト思ッタ人タチデアル。近ヅイテミルト、コノ人タチハ、ヘラクレイトスガ、パン焼キカマドノソバデ、体ヲアタタメテイルノヲ見タタメニ、立チスクンデシマッタ。トイウノモ、ヘラクレイトスハ、ソノ人タチニ、勇気ヲ出シテ、モットナカヘ入ッテクルヨウニト、促シタカラデアッタ。トイウノモ、ココニモ神々ハイルノダカラ、ト言ッテ……〕
    --ハイデッガー、前掲書。

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ハイデッガーの引用するヘラクレイトスのエピソードは言い得て妙だと思います。

世の中と人間に対して「諦める」のは簡単です。
「諦めて」不備を指摘するのはさらに簡単です。

しかしそうではない道はどこにあるのでしょうか。

「たとえ何事が起ころうとも、それから利益を引き出す力がわたしにはあるのだから」(ヒルティ)その勇気を選択するしかないのでしょう。

ちなみに、アラン(Emile-Auguste Chartier,1868-1951)よりもヒルティ(Carl Hilty,1833-1909)の言葉のほうがしっくりくる宇治家参去ですが、最近つと思うのは、アランにせよヒルティにせよ、言葉が違いますが、同じ対象に対して異なるアプローチで同じことを論じているのかも知れないな--と印象批判的に思う次第です。

さあ、呑んでとっとと寝よ、寝よ。

少々感傷的ですいません。
少々愚痴のようですいません。
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