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降る音を 肴にしつつ 雪見酒

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 西洋の芸術は<<印象>>を描写に変形する。俳句は決して描写しない。俳句芸術にあっては、事物のいっさいの状態がただちに執拗に決定的に、幻影のあえかな原質に変質させられるのであって、そうである限り反描写なのである。もはや事物が言語に他ならない状態にありながらも、さらに話し言葉になろうとしても、一つの言語からもう一つの言語へ映ってゆこうとして、事物が未来のいわば思い出としてのおのれを、つまりは前の世界にあるものとしてのおのれを、組みたてようとしている、あの文字通り<<支えきれない>>瞬間、そういう瞬間にあるものが、幻影のあえかな原質なのである。というのも、俳句にあって重要なのは本来的な意味での出来事だけではないからである。たとえば、

 わたしは初雪を見た。
 その朝わたしは忘れた
 わたしの顔を洗うことを
 (初雪を見てから顔を洗ひけり  越智越人)

 こうではなくて、--たとえば日本の芸術のなかにたくさんあるような--一服の色紙の一情景となるのを使命とするもの、たとえば次の子規の俳句、

 牛を一頭のせて、
 小舟が川を渡ってゆく
 夕暮れの雨のなかを。
 (牛つんで渡る小舟や夕しぐれ)

 こういう俳句は一種絶対の響きとなる、またはなるより他はないのである。(くだらないものであろうとあるまいと、ともかくいっさいのものを受けいれる禅においてと同じである)、つまり人生の一頁、言葉のうす絹に素早くつまみとってつけた軽い折り目そのものとなるのである。西洋的な表現様式の描写は、その精神的対応物を瞑想のなかにもっている。すなわち、神に帰属する形体の整然とした財産目録、福音書物語の挿話のかずかず(イグナチヨ・デ・ロヨラにあっては、瞑想作業は、そもそも描写的なもの)である。逆に、主体と神のない形而上学にのっとってつくられる俳句が対応するものは、仏教の「無」、禅の「悟り」であって、その無も悟りも、神がその場に啓示することでは決してなく、実態としてではなく、偶発事として事物を把握する働き、冒険(主体に生じる冒険というよりもむしろ事物に生じる冒険)の輝きのなさ(完全に回顧的であり再構成されたものなのだから当然なのだが)に犯された言語のこれまでの外縁を持つ主体をうち破ること、すなわち、<<事物を前にしての覚醒>>にほかならない。
     --ロラン・バルト(宗左近訳)『表徴の帝国』ちくま学芸文庫、1996年。

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写真も西洋起源になりますから、やはりその神髄は<<描写>>なのでしょうか。
たしかに絵画の世界においても、写真と見まがうような写実主義風の作品に向かい合うと圧倒してくるのはその<<描写>>であり<<再現力>>であります。

もちろん、絵画と写真は違いますから、表現される対象の強弱や静動といったアクセントは絵画には存在しますから、まさに「<<印象>>を描写に変形」しているのかもしれません。その意味では写真とは「<<印象>>を切り取る」行為なのかもしれませんが、そうした「<<印象>>を描写に変形」しようとする試みや「<<印象>>を切り取る」試みに対して、あくまでも徹底的に抵抗し続ける存在・事物というものが世の中にも存在するものでございます。

東京では本夕より雪が降り始めました。
日常的な降雪地域ではありませんので、それは社会全体から眺めてみますと“難事”であることは承知しておりますが、日常的に降らないからこそ、マアそれはそれで、雪が降るということに対して正直なところ嬉しく思う宇治家参去ですし、何故かワクワクするものでございます。

さて、
市井の仕事から帰る前に、「積もりそうだったら、除雪剤撒いといてよ」と店長から言われていたので、状況を確認すると確かに「降ってはいる」のですが、「積もる」気配なし……。面倒な仕事はせずにすみましたが、チト淋しく思うわけですが、東京では雪は降っても積もることが少なく、本年2回目の降雪も、夜の一間におわりそうです。

で……、戻ります。
私見になりますが、「<<印象>>を描写に変形」しようとする試みや「<<印象>>を切り取る」試みに対して、あくまでも徹底的に抵抗し続ける存在・事物のひとつが、この「夜に降る雪」ではないかと思います。

自分自身も比較的写真を撮る人間ですが、これがなかなかうまく撮影できないものでして(腕が下手というのはひとまず措く)、吹雪とか、積もった雪であるならば、それなりに「描写に変形」して残すことは可能なのですが、この風流な程度に降り続く雪というものを、一枚の絵、写真として切り残すことが実になかなか難しいものです。

目の前で確かに雪は降り続いております。
そして、音がしているわけです。
で……シャッターを切ってみると、それが自分の見ている風景のとおり切り落とされない。
隔靴掻痒とはこのことを言うのかも知れません。
何度もシャッターを切ってみますが、うまくいきません。

しかし、こうした捉えようとすれば逃げていく対象を捕まえるのには俳句が一番なのかもしれません。

降る音を 肴にしつつ 雪見酒
              宇治家 参去

結局は酒が呑みたいだけなのかもしれませんが、元来、酒飲みは風流にできているのではないだろうかと思う昨今です。

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