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人間の驚くべき勲章であると同時に恐ろしい危険

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 言葉は最も純粋な形式での伝達〔分かちもち〕である。言葉は自然からいわば絞り出された苦痛の声でも叫びの声でもない。言葉は自由な一致に基づいている。規約によって<<kata syntheken>>とアリストテレスは言っている。そのとき彼の念頭にあったのは、何らかの仕方で決定される現実的な一致ではない。そしてまた、ある現代哲学者が言ったように、<言葉は意味を賦与する作用によって言葉になる>ということが考えられていたのでもない。言葉に関しては何ものも設立され、賦与されることはなく、われわれはすでに常に一致してしまっているのである。ただその一致によってのみ言葉は言葉になり、言葉は言語の使用において常に新しい実行のなかで確認されるのである。われわれは誰もが、子どもの最初の言葉〔単語〕、決して存在しない言葉を讃える両親のすばらしく感動的な幻想のことを知っている。最初の言葉など存在しえないのだ。存在することはただ<話すことが-できる>ということ、ただ言葉「というもの」であるにすぎないのである。子どもがよく回らない舌で最初に行う模倣の試みは、我と汝との間の交換--眼差しの行う沈黙の交換を越える交換--を開始するという現実的な歩みにはまだなっていない。
 言葉がはじめていわば共同性を言葉へと高める。そして実際そうなのであって、ある目的への正しい手段は単に適切なものだというだけではなくて、理解して使われるように作られている道具と同じように、適切なものとして選び抜かれたあるものなのである。そしてその限りで言葉は、正しい手段と同じように、共同の世界に属するものであり、そして、目的それ自体の世界はなおのこと、万人にとって共通に適切で有用なものとして、すなわち、ギリシア人たちが言ったように、万人に有用なもの<<koine sympheron>>として規定されるのである。良いことを有用なものという意味で示すことと、良いことを正あるいは不正という意味で示すことは、明らかに統一的な事態である。素朴なこと、「そしてまた正と不正」とはアリストテレスのテキストにおいては、有用なものという意味での良いものに自明なこととして結びつけられている。動物たちと違って人間が、家や町の中で自己の設備と家具調度を自分で作るように、人間を整え方向づけてきたものは、たしかに自然である。しかし、人間がそのようにして作ったものは自然ではないし、話も言葉も自然ではない。それらは規約に基づいて存在するものなのである。
 われわれが今まさに学んでいるアリストテレスは、広く知れわたっておりかつこの真理を表現している第二の言葉〔エートス〕を発見した。言語が共同に妥当するというこの領域に属しており、そしてその限りで、言葉が習慣(ノモス)<<syntheke規約>>であるというばかりでない。--むしろ人間の社会的生の全体がそのような妥当性に貫かれているのである。もっともこの妥当性は必ずしも法則ではないが、しかしおそらくは慣習のなかに見出される秩序なのである。アリストテレスはこのことを表現するために、倫理学(Ethik)という言葉の語源となった、エートスという言葉を見つけ出したのである。「エートス」とはさしあたって第二の自然となった慣習以上のことを意味してはいけない。それゆえわれわれは動物たちの生活習慣について語ることもあるが、これに対して、われわれがエートスについてそして倫理学の諸々の可能性について語るときには、われわれは単に「固定された諸習慣」以上のことを考えているのである。われわれはそのとき、自分自身について釈明することができ、自分自身について責任をもつことのできるような身の持し方と態度のことを考えているのである。人間は選択するものであるということ、しかも自分の全生涯をいわば「企てる〔先取りする〕」ほどに選択するものであるということは人間の驚くべき勲章であると同時に恐ろしい危険でもある。
 <<Proairesis(あらかじめ選び出すこと)>>がそれに対するギリシア語の表現である。人は自分の生活を「送る」、しかも人は結局、良い生活、最も正しく、最も相応しい生活を自己の選択に基づいて実現できるように送るのである。それにもかかわらず、人間が秩序づけたり形態でありする行為が常にすでに嵌め込まれてしまっている自然の地平というものが存在し続けている。両親に対して初めて愛情を向けるということがあったとしても、よく舌の回らない子どもにとっては最初の言葉というものは存在しないのと同じように、人間の文化生成にとっては最初の一歩というものは存在しないのである。すなわち、われわれの個人的生活と社会的生活の全体の抽象的な投企というものは存在しないのである。
 プラトンのユートピア国家のなかに、決して争いではなく、満足させられない欲求というものの存在しないような牧歌的な自給共同社会の描写がある。すべてのものが驚くほど汚れのない状態で集まっており、ほどよい規律を保って協力し合っている。ところでプラトンと彼の描くソクラテスはそれを豚国家と呼んでいる。この「豚国家」という表現は言葉の完全な意味での下品さとお粗末な快適さということを必ずしも連想させるものではなく、教養の欠如、教育<<paideia>>の欠如を意味している。プラトンがこの牧歌的な国家を豚国家と蔑称するとき彼の言わんとしていることは、そのような国家が、支配権を行使し奉仕を尊敬するということのうちに成立する人間の本来の課題に未だまったく着手していないということである。人間の課題と政治の課題は、人々が権力をもちはするが自分の権力をよりいっそう益そうと濫用することのないようにすることのうちに成立する。<<paideia>>によってでなければ、すなわち教育によってしか人間のなかに根づいている攻撃の衝動は克服されない、というのがプラトン哲学の偉大な教えである。われわれはこのことがプラトンからフロイトに至るあらゆる政治学の課題だということを知っているし、それがわれわれのうちにあるこの攻撃の衝動を克服してキリスト教の愛の掟を現実化することができるかもしれないという、プラトンからフロイトに至るあらゆる思想家の希望だということも知っている。
    --ハンス=ゲオルグ・ガダマー(本間謙二・須田朗訳)「文化と言葉」、『理性を讃えて』(法政大学出版局、1993年)。

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息子殿が春休みになりましたので、細君の御母堂様が東京まで迎えに来てくださり、卒業式のあった土曜日に帰省されました。宇治家参去にはいまだ実感できませんが、マアお孫様というのは、対象を孫と認識する主体にとっては「かわいい」存在なのでしょう。

こちらは朝から馬乗りにされることもない平凡な一日を送れることが束の間の休息です。

さて、そんな息子殿から朝夕電話がかかってきますが、応対するのはほとんど細君であり、わたくしではありませんが、ひさしぶりに声を聞いたところ、……うちの息子殿はその父親と同じく言葉を選択することに慎重・熟慮するタイプのようで……、ひとつひとつの言葉をえらびながら、帰省先でのエピソードを話してくれました。

エピソードといっても、犬の散歩に行った、アニマル・カイザーのゲームで○○のカードが出た、etc……。

ただ全般としては、対象を表現しきれない部分が多々あり、こちらが助け綱をなげるわけですが、それによって文意がはっきりし、お互いに共通了解にいたれるもんだよなアなどと実感する次第です。

その意味では、言葉とは「何らかの仕方で決定される現実的な一致ではない」し、「<言葉は意味を賦与する作用によって言葉になる>」わけでもないのでしょう。

伝達の過程で「記号」と「対象」を〔分かちもち〕することによってリアルな実感をともなってくるのかもしれません。

だから言葉とはアリストテレスが諭したように、孤絶した独白(独白にしても自己という対象が存在するわけですが)ではなく、エートスとかノモスと豊かな関係を持っている人間世界のキーワードなのだろうと思うところです。

ただしかしエートスと聞けば「固定化した」〝しきたり〟とか〝ルール〟を夢想しがちでありますが、それはたしかにそうであるのですが、どうやらそうでもないようです。

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「エートス」とはさしあたって第二の自然となった慣習以上のことを意味してはいけない。それゆえわれわれは動物たちの生活習慣について語ることもあるが、これに対して、われわれがエートスについてそして倫理学の諸々の可能性について語るときには、われわれは単に「固定された諸習慣」以上のことを考えているのである。われわれはそのとき、自分自身について釈明することができ、自分自身について責任をもつことのできるような身の持し方と態度のことを考えているのである。人間は選択するものであるということ、しかも自分の全生涯をいわば「企てる〔先取りする〕」ほどに選択するものであるということは人間の驚くべき勲章であると同時に恐ろしい危険でもある。
    --ガダマー、前掲書。

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確かにエートス、すなわち「習慣」とは「固定化した」〝しきたり〟とか〝ルール〟なのですが、それでけでなく、「『企てる〔先取りする〕』ほどに選択するものであるということは人間の驚くべき勲章であると同時に恐ろしい危険な営みです。

しかしそのことによって人間は、たわいもない省みることすらない永遠に続くだろう日常生活という習慣を維持しつつ、そのなかで彩り豊かな挑戦と感動を味わうことが出来るのでしょう。エートスがエートス自身を脱構築していくべき「企て」こそ人間のひとつの特質なのかも知れません。

電話でのやり取りを終話したあと、細君に、「どんな内容で電話してきているの?」と確認すると、「いつも同じ内容よ!」と返されましたが、額面通りにはたしかに「同じ内容」なのでしょう。

しかし、その言葉を耳にしていると、どうやら同じなようではなく、端から見れば「同じ事を無限反復している日常の報告」なのですが、彼自身にとっては「毎日が無限の展開」のようで、そのことを細君に確認すると、「そう思う」とのことのようで……。

昨年の秋からよく聞く言葉のひとつに「百年に一度」というフレーズがあります。
たしかに昨今の経済危機を評するフレーズとしては最適なのでしょう。

しかし、人間の一瞬一瞬すらが実は「百年に一度」の代換不可能な時間であり、ひとはひょとするとそのことを自覚していないだけではなかろうか……。

息子殿とそういうやりとりをするなかで切に実感する宇治家参去でした。

……ということで、

「この酒はいつ飲んでこの味なんだよな」

……ということで、「すっきりしすぎていて味が微妙」と自己評価していて「ウマイ」のは「ウマイ」のですが、あまり常用していない酒を今日はセレクト。

白瀧酒造(株)の「上善如水」がそれです。

ただしかし、舌の上で転がすように味わうと、すっきりとはしているのですが、鮮烈な味わいが実はあり、そのことを見過ごしていた自分自身を発見です。

これなら毎日飲んでいてもまさに「百年に一度です」。

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